2023/1/22 備忘録
諸々忘れないうちに書き留めておこうと思ったことを、ついでに note にも投稿しておく。
私の噂
最近、といっても11月末あたりから、私が初対面の北本の人から「やぎちゃんね!沖縄民謡歌うんでしょ!」(昨年何度か北本の小さなイベントで沖縄民謡を歌った)とか「あー、団地に住んでる芸大生ってあなたね!」みたいな言葉を掛けられる、人伝いで耳にすることがちらほらある。様々な伝わり方で私が認識されていることがわかった。
話をきく覚悟
年末にDさんから『あいたくて ききたくて 旅に出る』という小野和子さんの本を頂いた。宮城県で民話をあつめ小さな村を尋ね歩いてきた小野さんの、自叙伝と民話が混ざり合った現代民話の記録というか、そういう本だ。
その本の中には寄稿文が寄せられていて、写真家の志賀理江子さんによる「幼き、死者の声」の文章にとても共感した。
2016年-戦後70年の年、みやぎ民話の会の定例会にて、戦争体験のある会員3名に、戦争についての話を聞くという日があって、わたしはそこに同席させてもらった。小野さんは会の始まりに、こう言った。
「戦争のことは、何十年も経っても簡単に思い出したり、語ったりできないのです。だから、話を聞くあなたたちの心のうちの覚悟を聞かせてほしい。知っている者が、知らない者にその経験を語って当然という暗黙の了解だけでは語れません。その互いの覚悟が通じ合わなければ、つらすぎるのです」
あのとき、小野さんは、戦後に生きるわたしからはほとんど想像不可能な出来事をともに考えようとする勇気のことを、皆に尋ねたのだと思う。
私もこのプロジェクトのはじめ、若者が「話を聞かせてください」と言えば誰でも口を開いてくれるだろうと思っていた。その考えが甘いと知ったのは、北本に通い始めて少し経った2021年の夏。みなさん口々に話はしてくれるものの、核心的な話というか、「大変だった」という言葉の中身や自分がその時抱えていた感情まで吐露してくれないのだ。今考えてみれば、「アート」へのトラウマを抱えている町で、のんきに芸大生が「話をきかせてください」と言ったところで、語りづらい/語れないことが多いことくらい見当がつくが、当時はそこまで想像が至っていなかった。
また「申し訳ないけど、アートプロジェクトは北本ではなかったことになってるよ」と言われたこともよく覚えている。この言葉を掛けられた時、首筋に冷たい刃を添えられたような、鋭い冷たさを感じた。なぜ冷たさを感じるのか、その原因を考えてみると私自身が「アートは良いもの」という芸術文化への過度な期待を無自覚もっていることに気が付いた。
北本において私は、ただでさえ東京から来たよそ者で、しかも芸術の側に立っているという、輪をかけて外側の人間だった。
よそ者の問いかけに、どうしたら重い口をひらいてくれるようになるのか。まずは問う側の前提をフラットにしておく必要がある。私が抱いていた「アートはよいもの。まちを元気にする」といった過度な期待や幻想を捨てた。もうひとつは、どんな話であろうと語ってくださった話を受け止めることだ。話者と同じ経験をしていないからこそ、どんな話であれ受け止めて、圧倒されたり経験を掴むための回路を探し続ける努力をする。
手さぐりだが、こうした私なりの「話を聞く覚悟」をもち、インタビューに臨むようになった。少しずつではあるが、語ってくださる話の厚みが増しているような気がしている。
ゼミ
上に書いたような「アートへの過度な期待、幻想を捨てる」に至った経験を、12月、大学内のゼミ発表で研究動機としてつらつら書いた。発表を終えたあと教授が、「ここにいるみなさんはアートへの過度な期待を持っているかもしれませんが、アートは一時的に強い夢を見せる効果はあっても、即効的な効果やわかりやすく役にったったりはしないものよ。みんな平等に損をするの。」といったことを言ってくれていて、なんだかとても安心した。
文化芸術の側にたつ者が「アートは良いもの」なんて妄信をしていると、いつまでたっても「アートって言われてもねぇ・・・」と思っている行政職員、まちの人たちと話が通じるはずがない、と改めて気づいた日だった。