103 願いはどこへ向かう
ワクワクしたり、ドキドキしたりする機会が多い人を羨んでしまうことはとても多い。いつからか、物事への執着、機会への執着が減ってきていると感じてしまう。
何かを欲する気持ちも格段に減ってきている。よく言えば、外への執着が減ってきており、今すでに持ち合わせているモノだけで十分な満足感を得られるようになってきているのだろうか。
いや、そんな前向きな解釈は似合わない。
満足感を感じるセンサーが劣化している、もしくは、その受容タンクが古びていると言った方が当分利口だろう。
生徒たちへ話すネタを考えている際に見つけた、
「二律背反性」またの名を、「アンチノミー」
この言葉こそ、ここ最近の違和感を説明してくれるのかもしれない。
ナカマヅクリ
この満足感の減少をすこし考えてみた。
行きたい場所、食べたいもの、欲しい物、見たい景色、何か外に対する欲を探してみても、次々に湧いてくることが本当に減った。
自分が今まで見てきた世界は狭すぎて、その景色を繰り返し眺め始めているような感覚だろうか。
世の中にはもちろん自分が触れたことも見たこともないもので溢れかえっていて、それに没頭し、楽しんでいる人を知ることは容易である。
「○○してないのー?」「○○見たことないのー?」それ、人生のさ・・・
なんて、みなまで言わずしても、こっけいすぎて呆れてくる。
生きてきた人生の年月が増えていくことで、もちろん経験値が積まれていく。すると、あるモノゴトの結果を想像できてしまうことも増えているような気がしてならない。
例えば、食。
味の想像が大抵つくものが増えてきて、わざわざ高い金を払って高級レストランに常に行きたいだなんて思わない。味と、さらにその会食の意味を加えてくれる効果はあるだろうが。
1,100円もする店のたらこスパゲッティより、2つで買うとお得な混ぜるだけソースのたらこで、レンジで作るパスタを1.5人前作って食べる休日で十分幸せを感じる。それだけは劣化しないのだよ、不思議なことに。
だからこそ、「贅沢だな~」なんて思えてるようなお金の使い方は滅多にしない。
例えば、景色。
持論にまみれすぎて、不快感を持たせてしまったら申し訳ないが、ある景色に感動するとき、「キレイ~」とか、「すげ~」とか大声で言えているようだと、そこまで感動していないことが多いと感じている。
それらの言葉の前には、”やっぱり”という言葉がどうしても入っているように思える。
見慣れた景色、予測が出来ていたその延長に景色が広がっていることに対して「いやー、やっぱりきれいだな(´ー`*)ウンウンウン(納得)」という気持ちだろうか。
景色を写真に残すことも減ってきたし、それは経験値のせいだと私は思う。わざわざ撮らなくても、今回思ったみたいにまた次に同じような景色を見れるのだから、と。カッコをつけると、記憶のシャッターで撮影して焼き付けておくとでもいえそうか。
ほんとうに心からその景色に感動するとき、私はその雄大さと美しさに声が出なくなる。圧倒されて言葉を紡ぐのをせき止められているように感じる。
しばらくの間、カメラを通してではなく、直接目でその景色と相対する。そして、深呼吸をし一言、「いやー、、、スゴっ」
ここ数年でそれを感じたのは、フィリピンのビーチと、徳島のうずしおクルーズ。
いや、少なすぎるだろ。
あ、あとは飛行機から房総半島を見下ろしたときくらいか。
経験が増えていくと、新たに感動や緊張を覚えることが減ってしまうことに一種の嫌悪感を覚えてしまうことは事実なのだが、それだけではない。
若くありたいとかいう願っても遠ざかってしまうような欲と、やっぱり経験は積みたいという2つが戦っている社会人生活となり始めている。
5か月の社会人生活を終えてうずまく感情たち。
それを整理し始めないと、芯のないよわよわすぎる人間が完成してしまいそうだ。
9月以降は、もっと頻繁にこの場で自分と向かい合っていきたい。
104へ続く➡
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