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ピース
「ごめん、覚えてないんだ」
先生はそう言った。誰に言うでもなく、謝るわけでもなく、そう、呟いた。
それは、私たちが初めて交わった朝の出来事で、目が合って1番初めに出た言葉だった。その言葉を聞いた私は、ただ呆然とここにいて良いものなのかさえもわからなくなってしまい、その場で立ち尽くすしかなかった。
すると、そんな私のことなどはお構いなしに先生は突然机に向かいだし、書き始めた。
私は仕返しの言葉もぶつける場所も相手も、あまりにも突然に取り上げられ、そこに取り残されてしまったが、仕方がないと諦め、書き終わるのを待った。
その時書いた作品は、世間から絶賛された。
それから先生が私を誘う事はなかった。私もその通りにしていた。
ある日、先生のお宅に伺うと、お酒を飲んでいる先生がいた。
先生のお宅は都内ではあるが、古民家を改築した贅沢な作りになっていて、3年ほど前親戚から譲り受けたものだと聞いていた。よほどその雰囲気が気に入ったのだろう、最近家にいる時は着物を着るようになっていた。
先生は縁側で柱にもたれながらウイスキーを飲んでいた。着物を着てウイスキー片手に昼間からお酒を飲んで佇んでいるなんて、昭和の文豪だな、と吹き出しそうになったが、それよりも、もたれかかる姿勢、眼差しが、月にほのかに照らされているかのようで、あまりにも美しくて見惚れてしまった。
声をかけずに私が佇んでいるのに気づいた先生と目が合った。
「ごめん、覚えてないんだ」
そういうと、また先生は机に向かい出した。
またなのか、と相手にも自分にも呆れ返ったが、不思議と後悔はなかった。
あの時目が合った瞬間、先生は足りないピースを見つけたかのような顔をした。
私もそれに吸い寄せられるように先生に近づき、自分からウイスキーグラスを取り上げ、唇を重ねていた。
あの時間はなんだったのか、そんなことを考えながら、きっと、今書いている作品も絶賛されるだろう。そう思った。
なんの歌かは忘れたけど、私は鼻歌を歌いながら先生の家を後にした。
「悪い男」
ふふふ、と笑いながら、私は呟いていた。
冬の終わりを告げる雨が、降り出していた。