短編小説:大きすぎるシャツ~シングル『愛してるって言ってみてもいいかな・憎いな』より~
「お母さんなにやってるの!?」
寝室でゴミ袋を抱えて次々と荷物を捨てている私の背後から、驚いたような娘の声が飛んできた。
「何って、研二さんの荷物処分してるのよ」
私は冷静に答えた。
「なんで?」
「なんでって、もう必要ないでしょ?」
「だから、何で!お父さんまだ死んでないよ?!」
理解できない、と言った雰囲気で,、娘が私の声をかき消すように大きな声をあげた。
「悪いけど邪魔しないで」
娘の大声を遮断するように、私は部屋の扉を勢いよく閉めた。
わたしは、1人になりたかった。
雷雨が、私の味方をするように窓に強く打ち付けていた。
研二さんの病気がわかったのはちょうど一年前で、その時は研二さんに限って悪くなることなんてあるはずがないと楽観的に見てた。
「知代が、そうやって気楽に構えててくれるから心が救われる」
そう言われるくらい、私は軽く考えてた。
なのに、研二さんの病気は私の思惑とは全然違う方向に進んで、どんどん進行して私は1人取り残されようとしている。
あんなにはつらつと元気だったのに、今は見る影もなく痩せてしまい別人のようになってしまっていた。
昨日からはついに目を閉じたまま言葉も話さなくなり、荒い呼吸だけが病室を包むようになっていた。
「誰よこれ」
私は病室でそう呟いて、病院を飛び出し、家に帰ってきた。
あんな研二さんは知らない。研二さんじゃない。
あれは違う人なんじゃないか。私はずっと夢を見ているんじゃないか。
そう思おうとして、もう一度目を閉じれば目が覚めるかもしれない、とベッドに潜り込んだ。
ベッドに潜り込むと、私の枕の隣にある研二さんの枕から研二さんの匂いがした。
研二さんの匂いを感じて私は、これが夢ではないという事を改めて悟った。
「許さない」
私は何の準備も出来ていないのに、研二さんは勝手に一人旅立とうとしている。私を置いて行こうとしている。
そんなことは到底許す事は出来ない。
ならばと、私はおもむろに立ち上がり、研二さんの枕をゴミ袋に入れた。
すると、色々なものが目に入ってきた。
2人で選んだタペストリー、私が買ってあげたネクタイ、パジャマ、下着、研二さんを感じるものを次々に私はゴミ袋に詰め込んだ。
その時、娘が部屋に入ってきた。
「お父さんまだ死んでないよ?!」
分かってる。わかってるよ。でも、だから許せないんだよ。
私は信じてたんだよ、これからも続く未来を。
子供達が巣立っても、仲良くとはいかなくても同じソファに座ってテレビを眺める、そんな当たり前な日々が続くと信じてた。信じてたのに。
私は研二さんの気配を感じるもの、香りがするものを泣きながら次々と手に取る。
止まらなかった。
止まってしまったら、今の研二さんを認めてしまうことになりそうだったから。
そんな私の手がふと止まる。
鮮やかな青いシャツを手に取ったまま、手が止まってしまった。
それは今年の誕生日に私が買ってあげた、真新しいシャツだった。
買ってあげたはいいが、すぐに入院してそのままになってしまい、一度も袖を通していないものだった。
真新しすぎて、研二さんの気配も匂いも何もない、ただのシャツだった。
痩せてしまった今の研二さんには大きすぎるシャツ。
もう着ることもないシャツ。
着るのを見ることがないシャツ。
なのに、なのに、手に取った瞬間、脳裏にはこの青いシャツを着て「大きいな」って照れたように笑う痩せこけてしまった研二さんの姿。
なんの気配もないシャツでさえしっかり研二さんを想ってしまう。
これから続く未来を信じる自分が憎い。
シャツを抱きしめたまま、私は大声をあげて泣いた。
きっと娘にも聞こえてしまっているだろう。
でも、止まらなかった、止められなかった。
空っぽになるくらい泣いた。
どのくらい泣いただろう。
いつの間にか雷が遠くに行き、雲から晴れ間がさしてきて、レースのカーテンから日が漏れてきた。
隙間から漏れた日差しが私を暖かく照らす。
まるで研二さんの温かい手で撫でられているようだった。
これが私と研二さんの物語なら、このまま悲しい話で終わらせちゃいけない。
そう思い立った私は、大急ぎで涙を拭いて、青いシャツをカバンに入れて居間に降りる。
娘が心配そうに私を見ていた。
「また病院行くから、一緒に行ってくれる?」
娘が怪訝な顔で私を見ながらも、無言でついてきてくれた。
きっと私が研二さんを締め殺すかもしれない。
そんな心配をしてるかもしれないな。
さっきの自分はそれくらいヤバかったな。
そう思ったら、1人で笑っていた。
「大丈夫?」
娘が恐る恐る聞いてくる。
そりゃそうだ、さっきまで大声で泣いてたのに、今は笑ってるんだから。
「ごめんごめん、大丈夫。ほら、前見て」
運転する娘に私は軽く声をかけた。
雷はもう鳴っていなかった。
病室に入ると、相変わらず研二さんは痩せこけて、声をかけても目を開けてくれず、荒い呼吸をしていた。
「研二さん。ホラ、これ持ってきたよ」
私はカバンから青いシャツを取り出して、布団の上から研二さんの体に当てる。
もちろん研二さんはなんの反応もしてくれない。
その時、看護師さんが病室に入ってきてた。
「あ、それ」
青いシャツを見て、何か思い出したような声をあげた。
「え?」
「それ、もしかして誕生日に買ってあげたシャツですか?」
「すごい、なんで知ってるんですか?」
「研二さんが、3日くらい前かな、私が処置してると『ふふふ』って笑ってて。どうしたんですか?って聞いたら『痩せちゃったなあ』って。『誕生日に買ってもらった青いシャツ、まだ着てないけど、着たいなあ、でも大きいだろうね。こんなに痩せちゃったから。恥ずかしいな』って言ってたんです。これだったんだ、青いシャツ。素敵ですね」
そう言って、看護師さんがせっかくだからと、シャツを着せてくれることになった。
その間手持ち無沙汰になった私と娘は、病室の荷物整理を始めた。
「お母さん!」
娘が大きな声をあげる。
びっくりした私は振り返り、娘の方を見る。
娘はノートを持って、目に涙をいっぱい溜めていた。
「なに?」
娘からノートを受け取ると、細くて力のない文字が書かれていた。研二さんが書いたのだろう。でも、あまりにも力がない文字で見たことがない人が書いたような文字だった。
『青いシャツを着て、知代とソファでテレビを観よう』
こんなに力のない文字なのに、研二さんは私と同じく、これから続く未来を信じてたんだ。
「はい、着れましたよ」
カーテンが開けられると、青いシャツを着た研二さんがいた。
でもやっぱり、痩せこけてしまっていたから、サイズが全く合わず、似合っていなかった。
「あははは、似合ってない」
私は大きな声で笑った。
そういえばここの所ずっと笑ってなかった。
研二さんにもちゃんとした笑顔を見せれていなかった。
楽観的な私が研二さんを支えてきたはずなのに。
「今日は青いシャツを着た記念日だね」
私は研二さんの隣に座り、手を握る。
研二さんは相変わらずなんの反応も返してくれなかったけど、良いんだ、私が勝手に今日を記念日にすればいい。
未来を作っていけばいい。
4日後、研二さんは私を残して1人旅立った。
諸々の手続きが終わり、2人の寝室は私1人の寝室になっていた。
あの時ゴミ袋に詰めた研二さんの荷物はそのままになってる。
その代わり、あの青いシャツが壁にかけられている。
私は青いシャツを眺め、あの時のノートを手に取り、1人笑う。
薄くて崩れたぐちゃぐちゃな文字を指でなぞる。
『ずっとずっと愛してる』
きっと娘も読めていない。
これは私と研二さんの秘密。
レースのカーテンから、日がこぼれて私の手を照らした。
研二さんの手の温もりを感じた。