触れる温度、触れない体温2〜配信シングル体温より〜
いつも時間に追われるように仕事をし、時間通りに物事を進めているはずなのに、今日に限っては、時間の感覚がなくなってしまい、俺は宿無しになってしまった。
俺だけではない。
隣のさっき会ったばかりの楓さんも同様だった。
「今日は数少ない宿はいっぱいでさあ。だけど、おじいを助けてくれたあんちゃんたちを野宿させるわけにはいかんさあ、どうだい?公民館なら一晩貸すことができるよ。こんな外じゃ、虫に刺されまくるし、ハブも危ねえし」
「いや、でも」
いくらなんでも女性の楓さんと同じ屋根の下というのはダメだろう。俺は断ろうとした。
「じゃあお願いします。たすかったー!」
楓さんが勝手に返事をしていた。
いいの??という顔で楓さんを見たが、気にしてないのか、本気で安心していた。
あれ?俺、男としてみられてない?
そんな楓さんの態度が逆に心地よく、俺もその案に乗ってしまうことにした。
公民館は、ビーチに程近い所にあり、部屋もいくつかあったので、別々の部屋で寝れば良いな。俺は理性を持って行動できることに安心した。
「あははは。予定通りに行かないって、こんなに面白いこと起きるんだね」
公民館に案内してくれた男性が帰った後、楓さんは笑いながらそう言った。
確かに、予定通りに行っていれば、俺は夜には本島のホテルで1人くつろいでいるはずだったのに、なぜか島の公民館で、見ず知らずの女性と一晩過ごそうとしている。
こんなに面白い出来事はあったかと言われれば、今までの人生でなかったかもしれない。
「だからさ、予定通りに行かないんだったら、今まで、やろうと思ってやらなかったこと、しない??響一さんがやらなくても、私はやるよ!」
そう言って楓さんは外に飛び出した。
釣られるように俺も楓さんの後について行くと、ビーチに着いた楓さんは、そのまま海に入って行く。
「え?ちょっと!」
「あははは!服着たままって気持ち悪ーい。でもおもしろーい!」
服を着たまま海に入るなんて、正気じゃないな。そう思ったけど、1人ビーチにいるのも馬鹿らしくなったので、俺も海に入る。
服が肌にくっついて確かに気持ちが悪い。
でも、なんだろう。この悪いことをしている、悪戯をしているような感覚。
俺も次第に楽しくなってきて、泳いだり、潜ってみたり、はしゃいだ。
2人で海ではしゃぎ、しばらくしてビーチから景色を眺める。
ビーチには誰もおらず、抜けるような青い空と、空と同じ色をした海が2人だけの秘密基地のように思えた。
何かを話すわけではなかったが、お互い肩を並べしばらく景色を眺めた後は海に入ってを繰り返した。
繰り返すうちに、俺は景色に溶けてしまい、響一という人間もそこには存在しない。そんな感覚になっていた。
どれくらいビーチにいたのか。
太陽は海をオレンジに染めて沈んでいった。
同時に、カラフルな世界からモノクロの世界に変わる境目になっていた。
俺は海に入り、力を抜くとぷかぷか浮いて空を見上げる形になった。
耳元で波の音と風の音が境目なく聞こえる。
先程まで青い世界だった空が、オレンジと黒の世界が混ざり、薄い三日月が浮いていた。
「月が見える」
不意に呟いた。
「本当だ」
気がつくと、楓さんも隣で浮いていた。
「気持ちいいね」
楓さんが今度は呟く。
「うん。この海に溶けてしまう感じ」
隣にいる楓さんと手先がくっつきそうな距離だった事もあり、俺は楓さんと共に海に溶けて行くような感覚になっていた。
「みんなきっと日常を忘れたくてこうやって、少しだけ荷物を下ろすんだね」
波の音と、風の音に消されてしまいそうだったが、楓さんはそう言った。
「荷物って?」
さっきは聞けなかった事を、俺はストレートに聞いていた。
「……私ね、肺に影があるんだって」
「…ガンって事?」
「まだわからない。精密検査の途中だから」
「でもさ、しっかり早めに治療すれば、肺がんの5年生存率は毎年上がってるから」
「そんな事、私だってわかってるよ!」
ザバリと起き上がり、楓さんは1人海から上がって行った。
俺も慌てて後を追う。
「ちょっと待ってよ、俺、間違ったこと言った?」
俺は楓さんを追いかけ、腕を掴もうとするが、楓さんは振り払うようにして振り返る。
「間違ったこと言ってないよ。すごく正しい!ひとっつも間違ってない!響一さんドクターだもんね。そりゃ正しいさ。
でもね、ガンになるって怖いんだよ!治療すればOKなんて、簡単な話じゃないの!
今まで、死ぬことなんて考えたことがなかった人間が、急に死が隣にやってくるんだよ?!
もしかしたら、今まで通りの生活ができないかもしれない。その恐怖、ドクターにはわからないでしょ?!」
楓さんを掴もうとした右腕が宙に浮いたまま、俺は動けずにいた。
先程まで、響一という存在がなくなるくらい景色に溶けてしまいそうだったのに、一気に医師の俺が姿を現し、それがより一層俺の身体を固まらせてしまった。
そのまま何も言わず、2人で公民館まで歩いて行くと、先程案内してくれた男性が立っていた。
「あれ!2人ともビチョビチョじゃない!着替えは?あるの?」
そう言われて2人で顔を見合わせた。
そんなこと、ひとつも考えず海に入ってしまっていたのだ。
「ぷっ」
ほぼ同時に笑い出す。
こんな簡単な事に気付かなかったなんて、どれだけこの景色に、状況に浮かされていたのか。
おかしくて笑いが止まらなかった。
「ちょうどいいや、うちでご飯食べなよ。そのお誘いに来たんさ。お風呂入ってその間に服乾かしてやるから」
2人で笑い転げる姿を不思議そうに眺めながら、男性はそう提案してくれた。
俺達は、このまま一晩を明かすのはさすがに気持ちが悪いので、言葉に甘える事にした。
男性宅でお風呂を借りて、2人揃って服を借りる。2人のセンスでは絶対選ばないような服にまたしても笑いが止まらなくなる。
「仲ええねえ。いい夫婦だ」
ニコニコしながら、おばあさんが話しかけてきた。
「え?いや、違いますよ。他人です」
即座に楓さんが否定したが、おばあさんはニコニコしているだけだった。
まあいいか、今日だけのことだし。そんな空気に2人で乗る事にした。
「ねえ、花火やらない?」
子供達が声をかけてくれた。
子供達と花火を楽しんだ。東京では、手持ちでも花火をやたらにできない環境なので、なんだか嬉しくて率先してはしゃいでしまった。
両手に花火を待って走り回る。
その姿を見て、楓さんが笑い転げる。
楓さんはさっきのことが無かったかのように、笑っていた。
楓さんの笑う顔を見ると、俺も自然に笑えた。
こんな時間が、永遠に続けば良いのに。
訳もなく、俺はそう考えていた。