触れる温度、触れない体温3〜配信シングル体温より〜
花火を楽しんでいるうちに、服も乾き、自分の服に着替えたが、着替えたら着替えたで、本当の服が今度は面白くなってしまっていた。
何をしても楽しかった。
今だったら箸が転がっても笑うかもしれない。
そんな冗談が冗談じゃないくらい、ただ、ただ、楽しかった。
公民館に帰ってきて、2人で別々の部屋に布団を敷いて「おやすみなさい」と別れた。
途端に1人になってしまった事に、戸惑いと寂しさを覚えたが、それよりも体の疲れが勝ち、いつの間にか眠りについていた。
ふと目を覚ますと、あたりはまだ暗く、夜中であることがわかった。
トイレに行こうと部屋を出ると、外が見える広い和室で楓さんは1人座り込んでいた。
「どうしたの?眠れないの?」
「あ、起こしちゃった?うん。なんか勿体無くて。見て、海に月が照らされてる」
昼間の抜けるような青い空と海も、心が晴れるようで素晴らしかったが、夜の月に照らされる海も、情緒的で美しかった。
俺は楓さんの隣に座った。
昨日から、何回彼女と肩を並べて座っただろう。
隣で肩を並べるのが当たり前なくらい座ったか。
そんな訳はないが、そんな風に当たり前に感じるくらい、当然のように肩を並べて座っていた。
「昼間はごめんなさい。あんなの、八つ当たりだった」
楓さんが、月を見ながら謝ってきた。
「いや、実はさ、痛いところ突かれたんだよね」
俺も、月を見ながら答えた。
「1日に何人も患者さんみてるとさ、次第にその人の事よりも、病気の人って言う視点で見るようになってて。俺、それが嫌でさ。こうやって時々リセットする様に旅に出るんだよ。
でも、いつだってリセットなんてされなくて、同じことの繰り返しになってた」
「しょうがないよ。ドクターは忙しいもん」
「でもさ、それが嫌だってことは、俺、変わりたいはずなんだよ。
でも、今までそう言う努力はひとつもせず、息抜きだけして変わった気でいた。今日はそれを教えてもらった。ありがとう。
それでね。でもこれだけは言わせて、俺たち医師は、いつでも全力で病気を治す力になりたいと思ってる。これだけはわかって」
さっきまで月に向かって話していたが、この言葉だけは、しっかりと楓さんに向かって言った。
楓さんは何も言わなかったが、俺の言葉をしっかり受け止めてくれたのがわかった。
楓さんも俺をしっかり見ていて、2人見つめあう形になった。
月に照らされた楓さんは、色白で頬が少し赤くて吸い込まれそうだった。
その唇に、肩に、触れたい。
衝動的に思った。
でも、身体がその動きを許可しなかった。
それ程までに、俺はこの1日が愛おしく、大切で、壊したくなかった。
2人でまた、黙って月を見つめた。
波の音だけが、俺たちを包み、2人でその音に溶けていった。
気がつくとそのまま寝ていたらしく、夜明けが近づいていた。
「あ、寝てたね」
何故か照れるように笑い合って外を見る。
先程までモノクロだった世界が、カラフルになってきた。
その瞬間、俺たちの時間が終わりを告げるのが、何故かわかった。
2人で頷いて、また、海を見つめた。
この瞬間を忘れまいと、見つめ続けた。
また会えると信じて。
⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘
東京に戻ってから、いつもの時間が戻ってきた。
いつの間にか、デニムからは砂が落ちてこなくなり、海の音も聞こえなくなった。
俺は、それでも忘れたくないと、あの海と同じ色をしたデニムを飾っておいた。
何故あの時、何も言わずに別れてしまったのか。
もう会えないのに。
あの時は、また会えると信じて別れた。
でも、現実はそう甘くなく、会える気配は何もなかった。
季節は流れ、楓の葉が色付いて落ちる季節になった。
「あれ?これはモミジなのか?カエデなのか?」
落ちた葉っぱを拾って、そんな自信のない言葉を呟いてしまうくらい、楓さんに会いたかった。
モミジなのか、カエデなのかわからない葉っぱを持ち帰って、俺は棚に並べた。
我ながら女々しいなと笑ったが、笑い返してくれる楓さんはいなかった。
次第にその拾ってきた葉っぱも枯れて粉々になってしまい、俺は、会えるかも、と思う事に蓋をした。
それよりも、俺はやる事がある。
そう心に決めた。
「次の患者さん呼んでください」
冬になったある日、肺がんの患者さんが、セカンドオピニオンで治療方法を模索したいと訪れていた。
呼ばれて入ってきたのは、楓さんだった。
お互い、一瞬目を丸くしたが、すぐに俺は医師の自分に戻り、データから読み取った経過を話す。
「これで、抗がん治療に入るのが1番ベターだと思います」
「はい。やっぱりそうなんですね」
「それで、ここからが大事なんですが、貴方は、治療をしながらどんな生活を送りたいですか?」
楓さんは、え?と言う顔をして、次の瞬間には涙をポロポロ流した。
「言ってもいいんですか?」
「良いですよ。患者さんの生活スタイルに合わせた治療をしたいので、是非、教えてください。それによって、治療を優先するのか、生活を優先するのか、決めますから」
俺の言葉に、楓さんが大きく息を吸ったのがわかった。
「………治療をしてても、仕事もしたい、プライベートも諦めたくない。………全部、今のままでいたいです」
言葉を言い切って、楓さんは両手で顔を覆って嗚咽をあげながら泣いた。
「わかりました。それは当然だと思います。
体の負担になりすぎない方法をいくつか提示したいので、また来てください。今のデータなら、それほど治療を急がなくても大丈夫。ゆっくり考えましょう」
「はい」
とびきりの笑顔で返事をしてくれた。
ああ、俺はこの笑顔が見たかった。
この笑顔に出会いたかったんだ。
楓さんが診察室を後にしようとした。
「楓さん!」
俺は咄嗟に声をかけていた。
ここでプライベートな声がけをすることは職業倫理に反するかもしれない。そばで看護師さんだって怪訝な顔で見ているぞ。後で何を言われるかわからない。
構うもんか!
俺は運命に蓋をしたけど、運命がそっちからやってきた。
だとしたら、今度は離しちゃいけない。
「今日の夜、一緒に散歩しませんか!」
慌ててメモ用紙に自分の携帯番号を書いて、楓さんに手渡した。
「待ち合わせ場所は楓さんに任せます。DM下さい!」
なんと一方的で、しかも誘うのが散歩ってなんなんだ?と自分でも思ったが、俺たちは、そこから始めたい。そう思った。
「わかった。必ず連絡する」
にこやかに笑って、楓さんは診察室を後にした。
その後、看護師さんからは「先生、いまのなに?!どういうことー?!」と質問攻めにあったが、そんなことはどうでもよかった。
楓さんと繋がった。
それだけだった。
それだけで、狭く燻んだ空が急に広く青く思えた。
待ち合わせ場所に着くと、既に楓さんが待っていた。
「久しぶり」
それだけ声をかけ合って、2人で歩き出す。
「びっくりしたね」
「うん、びっくりした」
「あんな所で私に声かけて大丈夫だったの?」
「いや、あの後大変だったよ。看護師さんたちから質問責めに遭って」
「でしょうよ」
楓さんはケタケタ笑った。
「でも、そんなのどうでもいいくらい、今度は離しちゃいけない。そう思ったんだ」
俺は楓さんの手を握る。
ずっと外で待っててくれたのか、手が冷たかった。
「会えなくて、寂しかった。
俺ね、もう会えないかもって思ったんだけど、それでも楓さんに会えたことを忘れたくなくて、あの時もらった言葉から自分を変えたくて、今までの治療の姿勢を変えたんだ」
「うん。嬉しかった。治療よりも、生活を優先してくれて」
「そしたらね、患者さんたちからの信頼も強くなってさ。楓さんのおかげ。本当にありがとう」
握る手に、力を込めた。
「私もね、響一さんの言葉を胸に、治療するなら一生懸命信じて治療しよう。そう思ってた。
だから、いろんな意見を聞きたくて、セカンドオピニオンお願いしたんだけど、まさか、響一さん、呼吸器内科のドクターだったとは」
楓さんも握る手に力を込めてきてくれた。
「運命って、あるんだねえ」
2人同時につぶやいて、顔を見合わせて笑った。
先程まで冷たかった楓さんの手が温かくなるのがわかった。
2人で初めて体温を感じ合う。
ここは東京で、抜けるような空も、広い海もないが、あの時伝え合う事ができなかった体温を、今は伝える事が、感じる事ができる。
「でもさ、私、これから治療するけど、再発するかもしれないんだよ?それでもいいの?」
「言ったでしょ。5年生存率は毎年上がってるんだって」
「そうだった。響一さん、そう言ってたね」
2人空を見上げる。
あの日のような月は見えないけど、目の前にはあの日、あの時当然のように肩を並べた人が隣にいる。
それでいい。それがいい。
これからは、2人で景色を作っていける。
2人は、キュッと手を繋ぎ合わせ、歩き出した。
よかったら、松下さんの体温という曲も聴いてみてください。
聴く人によって描かれる世界が変わってくると思います。
そんなお話もできたら、うれしいです。