エアコンの音〜only you〜
布団を捲る音
野菜を包丁で切る音
植木に水を差す音
掃除する音
ラジオの音
いつもの朝の音
「ありふれた生活の音に包まれて逝きたいの」
君はそう言った。
それまで、植木に水を差す音なんて気にしたことなかった。
だけど、君がそう言ってから、生活の音ひとつひとつが愛おしくなった。
君と僕を包む音だから。
今日も、ありふれた生活の音に包まれて朝を迎え、僕は、写真に手を合わせる。
「おはよう」
今日も、君と僕は生活の音に囲まれている。
⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘
僕の妻である幸子が末期の癌で余命2ヶ月と宣告された。
闘病自体はもう3年に渡っていて、文字通り、幸子は闘っていた。
でも、現実は容赦なく幸子の身体を蝕んでいたのだ。
幸子は3日泣いて暮らし、4日後には自宅で最期を迎えることを宣言した。
「私は病院の慣れない音じゃなくて、この家で、慣れ親しんだ音の中で過ごしたいの。達也さん、迷惑かけるけど、私決めたの」
僕はまだ、君がこの世からいなくなってしまうと言う事を到底受け入れる事が出来ていなかったのに、幸子は一足もふた足も速く、進んでいた。
ただ、宣告はされても僕たちの生活は変わらなかった。
朝起きると、幸子がご飯を作っている。
「おはよう」
僕は、コーヒーを淹れる。
朝ドラを観ながら、感想を言い合いあって朝食とコーヒーを楽しむ。
一緒に掃除をし、庭の畑の管理をする。
夕方には娘の子供がやってきて、娘が仕事を終えて迎えに来るまで面倒を見る。
夕飯を食べ、お風呂に入って電気を消す。
「おやすみなさい」
そんなありふれたルーティンのような毎日だった。
それが当たり前だった。
だけど、少しずつ幸子の横になっている時間が多くなり、代わりに、僕の仕事が増えた。
僕が食事を作り、掃除をし、孫の面倒を見る。
慣れない仕事の毎日に、僕はイライラすることが多くなった。
「達也さん、ほら、聞いてみて」
居間に移したベッドに横たわる幸子が、イライラする僕を、そう誘った。
「え?」
「シー!喋らないの」
僕は促されるように、耳を澄ます。
エアコンのモーター音が聞こえた。
「ほら、エアコンが健気に頑張ってる音、聞こえるでしょ?」
エアコンが?頑張ってる?
僕はポカンとした。
「家で最期を迎えるって決めてから、家の中で聞こえる全ての音が、なんだか愛おしく思えるようになったの。
エアコンも健気に頑張ってくれてるなあって」
「健気かあ…」
「ふふふ。うん。健気だよ。
達也さんの雑に洗濯物を干す音も、愛おしい。
こうやって私たちって色んな音に囲まれてるんだよね。幸せだ」
「幸せ?本当に?」
「うん。幸せ。
だって、私の身の回りにおきてる日常は何も変わりがないのに、そこに音を楽しむ事ができてるんだよ?幸せだよ」
そうか、幸子は幸せなのか。
そう思ったら、あれほど負担に思ってた家事等の仕事があまり苦にならなくなった。
僕は、幸せな音を奏でているんだ。
その音を、幸子と2人で楽しんでいるんだ。
それからの僕は、全てのことを慈しむように愉しんだ。
幸子に聞かせる音だからだ。
そんな幸せの時間を紡ぎ出しながらも、幸子はだんだん起きて活動する時間が少なくなり、ベッドで過ごす時間がほとんどになった。
2人で紡ぎ出す音が少なくなってしまった。
その代わり、色んな人が家に出入りするようになった。
疼痛コントロールが必要になっていたので、訪問看護師さんも頻繁に訪れてくれていた。
娘も、仕事の合間を見てよく顔を出してくれるようになった。
離れて暮らしている長男も、家族を連れて泊まりがけてきてくれたり、賑やかな毎日だった。
調子の良い時は、幸子を中心にみんなでお茶を飲んだ。
「この漬物は達也さんが漬けたの?凄いねえ!」
たまに、訪問看護師さんが褒めてくれた。
「漬物がすごいんじゃなくて、庭の野菜が優秀なの」
幸子が茶々を入れる。
みんなであはは、と大きな声で笑う。
時には窓を開け払って、2人で並んで庭を眺めた。
「ああ、風の音が、気持ちいいねえ」
幸子は幸せそうに目を細めた。
僕たちは色んな音に囲まれていた。
幸子は症状の進行とともに、次第に自分で身体を動かすことが困難になり、介護が必要になった。
周りの人たちは、僕の身体的負担を心配してくれたけど、僕は平気だった。
だって、結婚して30年以上、日常で体に触れるなんてことしてなかったのに、介護というものは否が応でも体に触れる。
何をするにも、幸子の身体を触らないと始まらない。幸子に話しかけながら、体に触り、ケアをする。
全身を使って幸子と会話をした。
なんだかおかしな話だが、愛情を確かめ合っている気がした。
幸子が目を閉じている時間が多くなると、僕は幸子のそばで独り言のように話しをするようになった。
その頃には、幸子の体に触るのにも慣れ、自然と手を握りながら話をするようになっていた。
幸子との出会いから、今に至るまでの物語。
まるで出会いからやり直しているようだった。
手を繋いであの頃の僕たちを語る。
主には一方的に僕が語るだけだったけど、幸子は時々目を覚ましては、僕の話に耳を傾け、笑顔になる。
「達也さんの声、いい声ね。最高の音。ずっと聞いていたいのに、眠くなる」
そう呟いて、幸子は深い眠りにつき、そのまま目を覚まさずに、1週間後、僕に手を握られながら、幸子は旅立った。
僕は幸せだった。悲しいけど幸せだった。
幸子とずっと歩んで来れたから。
でも、その気持ちを言葉にして伝えることは、ついにできなかった。
納棺の日、僕は幸子のそばに手紙を置いた。
ずっと言いたくて、でも最後まで言えなかった言葉をしたためた。
手紙を置いて、きれいに化粧をしてもらった幸子を眺め、前を見ると、満面の笑みで笑っている幸子がいた。
ああ、これはそうだ。娘と一緒にキャイキャイ言いながら選んだ写真で、まるで楽しい思い出を語るように選んでいた。女性って強いなあ、そう思いながら、ぼーっと見つめていた。
「お父さん、何置いたの?」
娘が僕に話しかけてきた。
「ああ、これ?うん。お母さんへのラブレターだな。最後くらいちゃんと伝えないとね」
「ええーー!お父さん、そういうキャラだったの?!知らなかった!
最期の方、ホント仲良しだったもんね。私そばで見てて、ちょっとムズ痒かったよ」
娘にからかわれる。
こう言うところは幸子にそっくりだな、と苦笑いになる。
「あのさ」
息子が間に割って入ってきた。
「母さんにね、棺に一緒に入れてほしいって言われてたものがあるんだよ。恥ずかしいから死ぬまで開けないで!って釘刺されてたから、開けないでいたんだけどさ」
なんとも真面目な息子らしい。僕に似たんだな。幸子ならそんな忠告をされてもきっと開けてしまうだろう。そんな事を考えながら息子から箱を受け取る。
それは両手に収まるほどの大きさの木箱で、開けると、紙の束が入っていた。
「何これ」
娘が手に取る。
「あ!これ私達のお母さんに宛てた手紙じゃん!」
「え?」
主に、手紙とは言い難いメモ書きのようなものばかりの、紙の束。
『いつもありがとう』
『母の日、いつも感謝してます』
誕生日や母の日に書いたものなんだろう。
『買い物頼まれたもの、これで合ってるかな?』
『友達の家に行ってきます』
中には本当にメモのような紙まであった。
「ありふれた生活の音に包まれて逝きたいの」
そう言った幸子の言葉を思い出した。
幸子はずっと昔から、こうやって日常のほんのわずかな事を大切に、大切に慈しんできたんだな。
なんと言う愛を、僕は、僕たちは受け取っていたのか。
それに対して、やっと僕は、幸子の愛に応えるように手紙を書けたのだ。
それは、幸子とのあの数ヶ月の音を楽しむ日々があったら出来た。
あの音たちに紡ぎ出されて、僕は言葉にすることができた。
手紙の入った木箱を幸子の希望通り胸に抱かせ、幸子は手紙と共に煙になった。
⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘⌘
今日も僕は、音を鳴らす。
布団を捲る音
野菜を包丁で切る音
植木に水を差す音
掃除する音
ラジオの音
あの時、幸子がいた頃と同じ音に包まれている。
「見てよ、こんなに立派なきゅうりが成ったよ」
そう写真の幸子に話しかける。
僕たちは手を繋ぐ。
何も変わらない。
僕は今までも、これからもずっと、いろんな音に囲まれていく。
それと共に、最後の手紙に書いた言葉を、幸子にしっかり語りかける。
『愛してるよ、いつだって。
愛させてよ、いつだって』
窓を開けると、風がぴゅうと僕を包んだ。
あとがき
これは、松下洸平さんのOnly youという曲を題材にしたお話です。
ストレートなラブソングで、色んなことはあるけど、ずっと2人で歩んでいこうね、。エンディングは2人手を繋いで。
と言う曲で、わたしはこの曲から、ある夫婦の最期の形を思いついて今回、お話にしてみました。
読んでいただきありがとうございました。