視線

見つめられる事に耐えられず、私は彼の言葉も待たずに口を塞いだ。

彼、轟君とは同期で部署もずっと一緒だった。仕事を通して仲良くなり、もう10年。

私は来月結婚する予定で、式の準備に追われているのと同時に、抱えている案件も佳境になっていて、毎日遅くまで残っていた。

今日も彼と後輩と3人で残って作業をしていた。
後輩が夕飯をテイクアウトしてくる、といって席を離れ、私と彼の2人きりになっていた。

「なあ」

轟君が話しかけてきた。

「さくら、どうして結婚するって決めたの?」
「どうしてって、まあ、そろそろかなあって。なんでそんなこと聞くの?」
「いや、結婚ってどんなもんなんだろうなって」
「私だってまだしてないからわかんないよ」

轟君は、端正な顔立ちをしていて、物腰も柔らかなので女性にはモテた。いつも違う女の人を連れているのはよく見ていたし、そんなつもりはなくても好かれて困るという話も聞いたことがあるくらいだった。

「轟君だって、そろそろ結婚してもいいんじゃないの?」

「うーん、運命の人に振り向いてもらえてない感じなんだよね」

男の人から、「運命の人」と言われるとは思わなかったので私は驚いて、「運命の人?!」とそこだけ抜き取って、オウム返しをしてしまった。

「なんだよ、可笑しい?これでも、白馬の王子様信じてるんだから」

「白馬の王子様って、男の人待ってるの?そういう人?」
思わず笑いながら、突っ込んでいた。

「あれ?そういう事になっちゃうか。でもね、うん。待ってるんだよ。待ってたんだ。そしたらさ、その運命の人だと思ってた人は来月結婚しちゃうんだって」

私は自分の心拍数が上がるのがわかった。

「へえ…そりゃ、待ってたからいけないんじゃないの?轟くん、モテるから自分から行かなくても今までは良かったかもしれないけど、本当に欲しい人は取りに行かないと」
心拍数が上がったのを悟られないように、ゆっくりと話した。彼の顔は見れなかった。

「うん。だから、ラストチャンスだと思ってるんだ」

そっと顔を上げると、真っ直ぐに私を見つめている彼がいた。明らかにその目には欲望があった。
私は彼の目を直視できず、視線を逸らし、書類を見つめながら、言葉を続けるしかなかった。

「まあさ、結婚直前の人、惑わしちゃいけないよ」

「さくら、惑わされてるの?」

それは言葉の綾で…と言おうとして視線を上げると、再び彼と視線が合った。

「さくら…あのさ」

彼のまっすぐな視線に私は耐えられず、言葉を遮るように彼の唇を塞いでいた。

轟君は一瞬驚いた素振りを見せたが、すぐにキスを返してきた。

どれくらい唇を重ねていたのか。夕飯を抱えた後輩の足音が聞こえたところで私は我に帰り、飛び跳ねるように彼から離れた。

そのあとは、どんな夕飯を食べたのか、何を喋ったのかあまり覚えていないが、気がついたら、帰りの電車の中で唇を押さえていた。

あのキスはなんだったんだろう。私はなぜ彼に自分からキスをした?
今の彼に不満はない。ずっと仲良くしていける自信もある、信頼もしている。
なのに私って、そんな軽い女だったのか?そんなことをグルグル考えながら、電車に揺られて目的の駅を通過してしまっていた。

「ああ、もう!」
仕方なく電車を降りて、ホームを歩いていると、目の前に轟君が立っていた。

「なんで?」

お互い同時に言葉を発していた。

「私はちょっと考え事してたら乗り過ごしちゃって」
「ここ、俺の最寄りの駅。一度家に帰ろうとしたんだけど、やっぱり話したほうがいいなって引き返そうと思って…」

「来て」

轟君は私の手を引っ張り、そのままホームを後にした。駅から出て近くの公園に差し掛かったところで

「ちょっと、ちょっと!ちょっと待ってよ!」

私は引っ張られる手を振り解いた。

「なんなのよ!訳わかんない!」

「訳わかんないのはそっちだろ?なんだったんだよ、あのキスは」

「私だってわかんないよ。だから、考えすぎて電車乗り過ごしたんじゃない。大体、私来月結婚するんだよ?何してんのよ、こんな女なの?自分にガッカリなんだけど!轟君だってさ、何急に訳わかんないこと言い出して。それにしたって、私に向けて言ってるわけでもないのに、なんでわたし動揺したのよ。それに…」

捲し立てる私の言葉を遮るように今度は轟君が私の唇を塞いだ。
その後、私を両手で抱きしめた。

「俺もさ、わかんないんだよ。この感情。幸せになろうとしてるさくらに言うことじゃないと思ったのに、カッコ良く見守ろうと思ってたのに、気がついたら喋っちゃってたんだよ。俺サイテー」

「…ホント最低……
私がね。私が最低。突然過ぎる、バカじゃないの?今更…今更だよ」

本当は轟君が好きだった。でも、同僚だし、彼はモテるので私なんて眼中にないと思い込んで友達というポジションを演じていた。

そして、本当は気付いていた。ずっと、彼の視線に。
でも答えを確かめるのが怖くて気づかないふりをしていた。

「俺、さくらの事、好きなんだよ。他の男に取られたくない。こんな時になって言うのずるいけど、俺のそばにいてよ」

彼は、また真っ直ぐに私を見つめていた。
今度は、しっかりと彼の視線を受け止め、飲み込んだ。

「…ありがとう。
多分、私もずっと好きだったんだと思う。
でも、今の状況が答えだよね。
私も轟君も黙ってた。言わなかった。そう言う事だよ。あのキスの意味は、わたしにも分からない。ただの欲望なのか、轟君への思いなのか。
あとさ、やめた方がいいよ、人のことまっすぐ見つめるの。耐えられない、色んな意味で。
だから、うん……私帰るね」

私は彼の体から自分を引き剥がし、背中を向けた。

「さくら」
と言いかける声が聞こえたが、私は振り返らず歩いた。轟君も追いかけてこなかった。
あのキスの意味を、私も轟君も答えを出すのには時間が足りなかったし、遅すぎた。

遅かったのだ。



それから1ヶ月、私は結婚を取りやめていた。理由は轟君ではない。急に彼の海外転勤が決まったのだ。私たちは、一緒に海外に行くことも、遠距離結婚することも選択できなかった。それだけの気持ちだと言うことに気づいたのだ。

しばらくの間、みんな腫れ物に触るような態度で、自分のせいだと思い込む轟君に至っては、申し訳なさすぎて、と距離を置かれていた。

今もあのキスの意味を、考える時があるが、まだ答えを見つけずにいた。ただ、あの感触だけは、鮮明に覚えていた。

衝動的に行動した先に何があるのか。私たちはまだ確かめていない。その気持ちを固められずにいた。

ある仕事帰り、駅を降りると轟君が立っていた。

私に近づき、あの真っ直ぐな視線で私を見つめた。ただ、その視線は穏やかった。

「俺、ここから始めようと思う。さくら、覚悟して。」

笑顔で私に近づき、おでこに優しくキスをした。
それじゃ明日!と言って帰っていった。

また突然のキス。
なんだったんだろ、今のは。

そう思ったが、私は笑っていた。
宣戦布告をされたのだ。受けて立とうじゃないの。

私たちは始まるのか、始まらないのか。あのキスの意味を見つけられるのか。

明日から何が起きるのか

彼の視線の先にある何かを私は見つけることができるのか。

「轟君の見つめる目は毒だわ…」

そんな呟きをしながら、私は覚悟を決めていた。

おでこは、ほんのり暖かかった。







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