不登校対策にお金をかけても不登校は減らない。かけるところはそこじゃないのかも。
以下、決して特定の個人や団体を避難するものではありません。
そして、かなり長くて読みにくいと思うので、批判したくなりそうな方はご遠慮ください。
誰もが何かしらの組織や仕組みの中で生きていて、それらに反感を持つこともあれば、それらに守られることもある。
だから、批判することは自分もその何らかの纏まり(民主主義社会と言っても良いかも)の一員として無責任だと思っており、一旦立場的な役割を横に置いて、誰かの責任追及をするのではなく、もっと協働的にみんなで作っている現状をみんなで俯瞰してともに考えるということができないものだろうかと思っております。
そう思う理由は、メール・SNS・会話などの日常のやり取りにおいて、普通にお話ししているだけなのに、怒りなのかマウントなのかストレスなのか、自分の意見や感じ方を必要以上に押して来られることがままあるからです。
説明してくださってるのかな。
そんなに私、わからんちんですか?
キャッチしているつもりなんですが、そう見えないでしょうか。
って一歩引いて(冷めた感じにはなってないはず)落ち着いてやりとりしているのに、ぐぐぐーと自分の主張を寄せてくる。(おっとっと…寄せすぎですよって、やんわり返しますけど)
子どもにもそういう話し方しているのでしょうかね。
そんな風に威圧的に言わないと、子どもってぐちゃぐちゃになってしまうのでしょうか。
子どもや保護者やクライエントの前では、そういう言い方はしないかも知れませんが、本音とは違う自分を作ることに相当エネルギー使って、よりストレス溜めてしまい、他者に対して批判的な気持ちを募らせるんじゃないか。そっちの心配が生じます。(余計なおせっかいなのは、よくわかってます)
そんな風に感じる日々のなかで、
不登校対策が取られてもなかなか変わらない理由
を書いてみました。
・小中学校の設置者である市町村の権限を持つ立場の方々が、不登校に纏わる課題を自分で知って考えることをあまりせず、今あるやり方を踏襲しがちだから。
・自治体の組織や教育の組織は、予算を組む時期や提言の締切などの枠組みに追われたり縛られたりして、充分策を練る時間がないから。(時間は作れというかも知れないが、非効率な書類等も多く相当多忙です)
・ヒエラルキー重視な風土があり、改革したい人がいても周りと足並みが揃わず、上層部まで意見が届かないから。そして、それを改善しようという意識を「強く」持つことが、よしとされないから。
(風通しの良い組織にしようというのが
当たり前のところと、そうではないところがあるのを感じます。改善が進む場合は、うまく足並みが揃うか、牽引力のある方に頼るということが多いような気がします)
この3点に対する策
としては、こんなところでしようか。
・教育長レベルの方と不登校支援団体が対話する場を持つ
・家庭と先生、双方の現場の声を拾う
・不登校の当事者と言われる方々は、決してひとくくりには出来ないので、団体に話を聞く場合には、数多くの団体の様子を知るようにする
・実現可能で突飛過ぎず、公益性を担保できるような案を考えて提示する(できれば予算やその効果も説明できるようにする)
ここまでは、対話力や企画力・行動力・組織力を求められる行動ですが、
個人レベルでできること
はあります。
・コミュニケーションや文書等のやり取りにおいて、効率的な方法を提案したり実行する
・自分と感覚の合う人をみつけてつながる(自己肯定・現状肯定)
・感覚の合う人との関係性を大切にして、心理的安全性をしっかり確保する(でも依存はしない。薄く境界線を保つことも大事)
・安全安心の場所や関係を感じられたら、少しだけ自分とは違う意見の人の話もみてみる(多様性の認識)
・違う意見や過ごし方をしている人を批判したり比較したりせず、そういうやり方もあるんだなと受け止めてみる。受け入れなくてよい。(身近にある多様性の受容)
・人気度・知名度など数値的な評価ではなくて、どれだけ自分にとってしっくりくるかで判断するようにする
こんな風にして、自分なりの価値観を肯定し、他にも目を向けて価値観を育てていくことが、社会的自立のためには最重要ではないかと私は思います。
勉強する意欲がわかないのも、人と会いたくないのも、その子がその子なりに守ってきた大事なもの(価値観)を否定されるような経験をたくさんしてきたからでしょう。
組織や仕組みを変えることはできなくても、我が家なりの教育観を持つことはできる。
不登校になった時のひとつのゴールは、それを確立することではないかとも思います。
不登校対策と併せて行って欲しいこと
学校の中にいると、決められた価値観(ルールや慣習)が合わない場合に、そこに合わせるだけで消耗してしまう。
そういう子は、不登校になっても自分がダメとは思わずに、自己を確立するために一旦その集団から離れる選択が必要だった。
自他ともにそう思えるようになれたら、不登校という言葉はなくなりますね。
散々さけばれているインクルーシブ教育システムとか、個別最適な学び、校則の見直し、子どもの権利擁護。
これらがしっかりと理解されて実行されれば、学校で過ごしにくい子が、学校に行かない選択肢を強いられて学ぶ機会が狭められることもないはずです。
子どものために作られたであろう様々なルールや規則・慣習が、組織の流れを守るためや時間を守るためになってはいないか。
時間や予算や身の安全を守ることも大切だけれど、そちらが重視されて心の安全は誰が守るんだろう。
心の安全を守る気がないとは思わない。大人にそこまでするゆとりがない。いつから、そういう世の中になってしまったんだろう。
不登校になってからの受け皿を充実させることも必要だけれど、不登校がなぜ起きているのか、そしてなぜ増え続けているのか。その根本に目を向けて考えることって、施策を考える上では当然行われるべきものだと思う。
それを一部の団体とか有識者からの聞き取りでわかったつもりになってはいないどろうか。
要因分析を多角的に継続的に行い、不登校対策ではなく、誰もが安心して過ごして学び合える学校つくりへのテコ入れをお願いしたい。
※繰り返しますが、あくまで個人の意見であり、特定の何かに対する批判ではございません。
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