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この国の未来について〜かつて不登校だった我が子達との雑談〜

我が子達ふたりとも社会人です。
それぞれの場でジレンマを感じています。

うちの子達、私の影響なのか生産性とか合理性を考えて動きます。でも、人情にも厚く、話し合う必要があればちゃんと時間を取ります。

自分の得意なことも知り、かといって自慢したりひけらかすことはないし、苦手な部分についても認識していて、それをどうしたら良いのか家族の中で話し合うことができる。

そんな子達です。

子育て中は、本当に社会人になって働き続けられるのか、とても不安でした。体調も不安定だったし、学校いけなくなったし、友達が多い方でもなかったし、学校の成績がとても良いわけでもなかった。

私も決してできた親ではなく、他の子と比べたし、宿題はきっちりやるべしと管理したし、良い点を取るように口うるさい方だった。もちろん楽しくできるようにサポートしたり、アイデア出るように話す時間を持ったり、やりたいと言ったことはやらせてきた。

でも、どこかで誘導しちゃってた。
だから不登校になって軌道修正が必要だったんだろうな。アイデンティティを確立するために、一旦他者や親を跳ね除けて殻に閉じこもる必要があったんだろうなと思う。

そんな我が子達と話したこと。

会社とか組織をうまく動かすために一番有効なのは職員のスキルアップじゃないか。そこにお金と時間をかけたらいいのに。

スキルアップしてもスキルの差は出てくる。スキルに見合わない人はどうする?

そのスキルに合った仕事があれば良い。

でも、その与えられた仕事をその人がやりたくなかったらどうする?

こういうシステムで効率よく社会を発展させようとすると、みんなの能力を把握してそれに見合ったところに配置する。独裁政治になるよね。

支配と自由。
そのバランスは難しい。
これが人類にとって最大の課題。

となると大切なのはモラルじゃないか。

有能かどうかというのは、求められる役割によって違う。ミスマッチはあちこちで起きてる。

有能かどうかじゃなくて合わないだけなんじゃ?

そう考えると、学校は子どもの価値判断を教科の点数でする。もっと違う価値基準で子どもの良いところを見つける価値基準があればいいのに。

学びと仕事。
学校と社会とのつながりが見えてきたら、子ども達は、もっと学ぶのが楽しくなるだろうと思う。

価値基準を多様化している場。
今はフリースクールなどがその役割を果たしてくれていると思う。

本当にナイストライ。

話は飛躍するのだが、学校の価値基準が画一的であるがゆえに不登校になる子、自己肯定感が低下してしまう子がいて、その受け皿となっているのがフリースクールや居場所。

(そこにすら行けない子も多数)

民間では、当事者に寄り添って底上げしようと苦肉の策を講じているのに、公的には頑張って学びの多様化学校と教育センターの配置。

教育センターはだいぶ柔軟なプログラムを取り入れ始めているけど、まだまだ「自分から来てね」の申請主義。

困ってる人からしたら、遠い場所、遠い存在なのです。

アウトリーチできる人を増やす。
アウトリーチする人が当事者意識を学ぶ。
そういう人を増やすならば、聞き取ってきたことを検討して実行する舞台も設けるべき。

そうでなければ、アウトリーチ部隊に丸投げってことです。

消防隊が火消しに行く。
それとは違う。
そして、もし火は消えたとしてもそこからの再建こそ時間がかかるものでしょう。

我が子達とは、こんな感じの話をすることがあり、誰かと向き合う誰か、その一人一人の自覚やスキルアップが何より大事だねという話しになったのでした。

同時に、自分を知る、自分のことを過大評価も卑下もせずありのままに知ることも意味のあることですね。

完璧な人なんていないのだから、自分をよく知ると他者に対しても優しくなれたりします。

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教育コーディネーターぽりごん
ひとり一人に合った教育環境の実現を目指します。