26年目の奇跡
私は高校時代、部活のために生きていた。
演劇が全てで、それだけのために学校に行っていたし、それがなければ志望校でもなかった母校には3年間通うことができなかったと思う。
着たくもないセーラ服に毎朝身を包んで、通いたくもない遠い通学路は、どうにもならぬほどつまらなかった。
でも時々朝すれ違う他校の先輩たちに
「おはよー!」
と声を掛けられた日だけは、ペダルを漕ぐ足も軽かった。
もともと役者だったけれど、いかんせん使いにくい役者で。
脇役にすると主役を喰うし、主役にするには弱い。飛び抜けて美人でもなければ、小さくて目立たないサイズ。
それなのに、脇に置くと芝居が浮く。
実際に、県大会の時に
「ミスキャストでしたね、彼女を主役にするべきだったのでは?」
と、とある劇団からきたという審査員に言われ、主役の同級生の男子とはそれきり口も聞かなくなった過去もある。
そんな私は一度舞台に穴をあけた。
どうしても先輩の態度が許せなくて、あいつを下ろすか私が下りるかどっちかにしてくれ!と顧問のパパに迫った。
するとパパは
「頭を冷やせ、お前が下りたらえい。来たくなかったら当日も来んでえい。」
とプイとどこかへ行ってしまった。
その脚本は、私のエピソードをほぼそのままにしたような話があって。
後輩たちが少しばかり気の毒がるぐらい、私がそのままそこにいた。
そんな芝居で私を下ろすとかある?!
どんなことよこれ?!
内心は穏やかになれない時間だったけれど、そんな時にパパが
「お前、脚本書いてみるか?」
脚本家の西岡椿としての私が生まれた瞬間だった。
その日から、私は表舞台から姿を消した。
穴をあけた舞台には入部したての後輩に白羽の矢が立ち、準主役を射止めた後輩はキラキラしていた。
私は少しばかりの肩身の狭さと申し訳なさで本番に行けなかった。
みんなが楽しそうにしていた中、私の孤独な戦いが始まった。
残念ながら脚本の書き方なんて1ミリも知らず、ただただ毎日何をどうしたらいいのか悩むだけの日々がしばらく続いた。
少し書いてはパパに見せて、こうしたらいい、ああしたらいい、そう言われてまた直すというルーティンを繰り返した。
部活の時間だけで何とかなればよかったのだけれど、どうにもならなかった。
学校から戻ってワープロの前に座り頭を抱え。
お風呂に入りまたワープロの前で悩み。
寝ると言いながら勉強机に置いてあったライトとワープロの明かりの前で朝日が昇るまで悩んだ。
いつの間にか寝入ってしまい、気がついたら3時間目くらいの時間だったりもした。
ひどい時は余裕で5時間目が始まるような時間に起きてしまう日もあった。
慌てて制服に着替えて、朝ごはんというには少々遅いものをコーヒーと共に流し込んで、鏡川沿いのいかがわしいホテルの横を半ベソをかきながらかっ飛ばすを何度も繰り返した。
高校2年の1学期は全ての科目の先生に怒られこそしないけれど
「あと◯回でアンタ留年やきね!」
とチクリと言われ。
期末は何とか低空飛行で乗り越えて、出席日数も軒並み1・2回しかもう休めませんっていうギリギリなところでクリアして迎えた夏休み。
そこもずっと同じような生活を繰り返して、新学期を迎えた。
県大会は私の脚本で行くことになって、脚本家兼舞台監督、演出も兼ねることに。
もうてんやわんや。
脚本はパパが手直ししてくれるけれど、基本は私が作っていく。だから、途中で投げることはできなくて。
そうなるとまた私は出席日数がヤバいぞな日々がやってきて。
2学期の途中から、大好きな先生が研修に出てしまって、どこの誰?!な先生がある日教室にいて、自分のクラスを間違えたのか?!ってびっくりしたこともあった。
そんな調子だったので、2学期は中間テストから赤点を出した。
これはヤバいと思ったけれど、脚本が未完成なんてもっとヤバい。
だから、美人の数学の先生を泣かせてまでも私は部活に邁進した。
期末でなんとかする!!!そう決めて、部活一直線。
脚本もなんとかラストまでできて。
パパが手直ししてくれたので、とても素敵な作品になって。
役者のみんなもとても生き生きと私の世界でそれぞれをのびのびと演じてくれた。
残念ながら四国大会へは進めなかったけれど、パパの力もあって私の作品は生徒創作脚本賞をいただいた。
その瞬間から、あんなにも私に厳しい目を向けていた先生たちが
「頑張ったね」
そう褒め始めた。
「できると思いよったよ!」
「アンタはやれる子やもんね!」
この間まであんなにチクチクとした言葉を投げていたのに、大人というものはやっぱりみんな勝手だわとぼんやり思ったものだ。
私は中学の時に、県下の女子中学生の英語弁論大会で優勝したことがあるのだけれど。
その時も周りの大人の態度に辟易として、学校に行けなくなったことがあるから…周りの大人の賞賛はスルーした。
アホくさい。
ただの問題児ぐらいにしか思っていなかったのに、今更褒められて何が嬉しいもんか。
私はそのあと、脚本のテーマが援助交際だったばかりに生徒指導室で詰問にあったりしたけれど、しばらくは脚本も書かない生活に戻った。
脚本家の西岡椿は封印して、また舞台役者に戻って高校3年生になった。
私は引退しないでギリギリまで部活を楽しんでいたのだけれど、卒業が見えてきた頃に県教委かどこかから声がかかり脚本家に戻った。
でもその時は最初よりは苦しまずに作品を生み出せたし、最後まで現役を貫くと決めていたから大学受験の前々日の本番にも役者として舞台に立った。
多分そこで私は燃え尽きたんだと思う。
筆を置き、舞台に立つことも、観に行くこともなくなった。
高校卒業と共に演劇からも綺麗さっぱり卒業した。
ちなみに私が高校を卒業して初めて芝居を観にいったのは確か28くらいの頃。
大好きな先輩が出ておられるのを知ってどうしても観たい!と飛んで行ったのが最後。
脚本家だった自分はとても誇らしいけれど、戻りたくない地獄のような日々だったからかな。
演劇から離れて26年目の私に、突然パパから連絡が来た。
「お前の書いた作品を上演する学校があるってよ。」
へ????
今なんとおっしゃいました???
26年前の作品を探し出した学校が?
それも高知の学校じゃない?
どんな奇跡?!
私が留年の危機を乗り越えて難産の末に生み出したあの作品を、四半世紀を超えて今上演するとな?!
ただただ驚いて
「ふぇっ?!」
しか出なかった。
私全部で私の全てを絞り出すように生み出したあの作品がまた日の目を見る日が来るとは…何と言えば良いのか、何と表現したら良いのか私にはその術がないけれど、泣きそうになったことだけは事実で。
どあの作品の中にいるあの時の私や、あの時の仲間達の想いを…舞台の上で表現してもらえたらいいな。
あの日の私がやっと、誰かに認めてもらえた気がしました。
僕らはみんな生きている
私の処女作で、16歳の私が全身全霊で向き合った作品です。
誰か1人にでも刺さるものがあればいいなと、43歳の私が願っております。