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『花束みたいな恋をした』はタイトルが逸脱だ。



この間のこと。

「自分がその作業をやらなきゃいけないときはエラーばっかり起きて時間がかかるのに、
それを人に教えようとすると、なんの問題も起きずにスムーズにいくの。
例えば家電が調子悪くて、修理に持っていったときに限って調子良く動くみたいに。」

そう愚痴をこぼすわたしに、夫は笑って、
「マーフィーの法則みたいだね」と言った。

「なにそれ?」

「あ、知らない?
トーストを落としたとき、バターを塗った面が下になるってやつ」

「へー、そんな法則があるんだ。知らなかった。
他には『洗車した次の日に雨が降る』だって。」

そんな会話をした数日後に、一緒にこの映画を観た。

だから冒頭、マーフィーの法則が出てきたときは、わたしはふふっと笑ってしまいそうだった。


坂元さんのいろんなドラマを見てきたけれど、
「日常」の描き方が本当に素敵だと思う。

少し嫌だなと思うこと。
あ、嬉しいなと思うこと。
いろんな感情を、別の言葉で表現する。

セーターをおろした日に限って焼肉に誘ってくる男は、「なんかダメ」で、
「電車に乗っていたら」というのを「電車に揺られていたら」という人は「なんか良い」のだ。


坂元さんの世界では、人をざっくり2種類に分ける表現も多い。

例えば、『花束〜』で言うと、
「今井夏子のピクニック読んでも何も感じない人」と、「今井夏子のピクニック読んで何か感じる人」。
これがゆくゆくはふたりの”すれ違い”の象徴にもなってくる。

『カルテット』でもこんな台詞があった。

「あの人の家ポスター貼ってあったじゃん、テープで。剥がれてたでしょ?
躊躇なく壁に画鋲刺したりできないんだよね。」
「あっち側だからわかるんだよ、僕も。
画鋲も刺せない人間が音楽続けていく為には嘘くらいつくだろうなって」

世の中には、「躊躇なく壁に画鋲刺せる人」と「躊躇なく壁に画鋲刺せない人」の2種類の人間がいる。
別にどちらかが正解で、どちらかが不正解ということではなくて、
ただ、「あなたとわたしは違うんだ」もしくは「あなたとわたしは同じだ」と思うきっかけになった、ということに過ぎない。


『花束〜』は本当に、ふたりの物語だった。

男女が出会って、恋をして、そしてお別れする。
言ってみたらそれだけだ。

それだけなのに、ふたりが「近づいていくこと」と「離れていくこと」をいろんなものが表現してる。

お揃いのジャックパーセル、家の近くのパン屋さん、イヤホン。

ふたりの世界を象徴するものだったはずが、
いつしかふたりを隔てるものになっていく。


もっとお涙頂戴的なストーリーにすることもできたのに、そうしないところがわたしには余計に泣けてしまった。
外的要因じゃなく、お互いが成長したり、時間が経って大切にするものが違ってきてしまうことによるすれ違い。
それが何よりも辛い気がする。

どちらかが駅から徒歩30分について文句を言うとか、そういう地獄みたいなケンカは、もしかして描かれていないだけであったかもしれないけど、
エンディングにあんなポップな音楽を使うのはずるいと思う。


絹ちゃんの心にずっとあったこと。

「はじまりは、おわりのはじまり。」


『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』でも、印象に残った台詞があった。

「私は新しいペンを買ったその日から、それが書けなくなることを想像してしまう人間です。」


普通の恋愛映画だったら、「何があっても2人は永遠に結ばれている」ことを描くことが多い。

だけど現実には、「絶対」や「永遠」なんてものはないのだから、何かを諦めたり、妥協したりして人は生きているんだ。
そんな「リアルな恋愛」をこの映画では見せてくれる。

でもこれは、決して絶望を描きたかったわけではないとわたしは思う。
ふたりの幸せな時間は確かにあった。
花束みたいに、色とりどりの幸せで溢れていた。

そう考えると、この『花束みたいな恋をした』というタイトルは本当に逸脱だなと感じる。


このふたりがもし結婚していたら、
『最高の離婚』みたいな話も繰り広げられるのかな。


この映画に出会えてよかった。

このふたりに出会えてよかった。


またね。


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