『花束みたいな恋をした』を観た話をしたい話
「花束みたいな恋をした」という映画を観た。
大好きな坂元裕二さんの脚本ということで、ずっと楽しみにしていた映画だ。
大体3年に1本くらい、非常にくらってしまう映画がある。
好きとか嫌いとかを超越して、くらってしまう映画。
今回の映画はまさにこれだった。
誰が見ても自分の映画だと思える映画。
そんな感想をよく見かけたが、私にとってもそうだった。
この映画のことを書きたくてnoteを始めたと言っても大げさではないのだけど、その前に少しだけ、自分の話をしてみたい。
我が家はそこまで頻繁に映画を観る方ではなく、せいぜいジブリとか、ジュラシックパークとか、チャッキーとか、ジュマンジなんかが定番だったので、初めて岩井俊二監督の「花とアリス」を観たとき、淡さというか、映像の綺麗さに驚いた。それからわたしは、映画というものに魅了されていった。
音楽も好きだった。小さい頃はthe brilliant greenの川瀬智子さんみたいな歌手になりたかった。
高校2年生の時、学園祭のステージで野球部の人たちが、ユニフォームを着て楽器を演奏しながら歌っていたのを見た。
決してうまいとか派手とかじゃなく、ユニフォームとギターもちぐはぐだったけど、なんだかすごく心に響いて、すぐにその時演奏していた「銀河鉄道の夜」が入った「さくらの唄」のCDを借りた。
その1年後、同じ体育館のステージで私は「漂流教室」を歌った。その日のことはあまりよく覚えていない。でも間違いなく、わたしの地味で退屈な高校生活のハイライトはこの日だ。
大学生になってから、TSUTAYAに通いありとあらゆる邦画を観た。地元の小さなTSUTAYAの邦画コーナーを見尽くしたんじゃないかと思ったくらい。
たまに間に合わなくて見れずに返すこともあった。今度こそ、と再び借りてやっぱり観れなかった映画が2本ほどある。「ロックンロールミシン」と「メゾンドヒミコ」だ。多分私はこの2本を一生観れないかもしれない。
ちなみに、洋画を観なかった理由は、大抵地球や人類が滅亡したり、宇宙で戦争すると思っていたから。
社会人になって、映画館に行く機会も増えた。周りに映画を観る友達があまりいなかったので大体一人で行った。一人で観るのは好きだ。余韻にいくらでも浸れる。映画館を出て、電車に乗って家に帰るまで、その映画のことだけを考えていられる。
「わたしはロランス」を観たとき、グザヴィエ・ドラン監督が当時の自分と同じ23歳でこの映画を撮ったという事実に呆然とした。
2017年ももう終わろうとしていた頃、「パターソン」という映画を観た。
今年最後の映画にこれを観よう。見逃していたし。なんとなくそう思った。
「パターソン」では地球も人類も、滅亡しなかった。毎日特に何の事件も起きないけれど、1日として同じ日はなかった。
気付けば年は明け、素敵なイラストを描く人に出会った。お互い終電を逃してばったり、とか全然運命的な出会いではないけれど、ふとしたきっかけで映画や漫画の話で盛り上がって、今度飲みましょうなんていう話になり、その1週間後には、新宿東口の交番の近くで待ち合わせをした。
いろんな話をした。震災のとき何してたかとか、就活のときの話、「桐島、部活やめるってよ」の話、たまたま同じ年にロスに行っていた話。話は途切れなくて、あっという間に時間が過ぎた。
そして次の日もまた会う約束をした。次の日、映画館で会ったその人は「お久しぶりです」と言ったので、私も「お久しぶりです」と返して笑った。それはなんだか朝帰りしたときのような恥ずかしさだった。
私たちは別の人間だけど、よき理解者で、同じものを見て感動できる。特に何も変わらない毎日も、集めたら花束みたいな日々になる。
それなのに、だからこそ、なんでだめなんだろう、どうして離れなきゃいけないんだろうと、まるで自分のことのようにグサグサ突き刺さってくる映画だった。
絹ちゃんと麦くんに幸あれ𓆸