はらら
1.
男と女がいた。
二人は幼い頃からの知り合いで、仲睦まじく、 親兄弟に言われるまま、女が15、男が18の時に祝言を挙げた。
二人は饅頭に砂糖を塗してもまだ足りないほどに甘い日々を過ごし、女はやがて子供を身籠った。
その時の男の喜びようと言ったらまるで、稲妻が空を駆け抜けるようで、女が腹を撫でながら呟くのと同時に有らん限りの力で女 の手を握ったかと思ったら、絞り出すように礼を言い、次の瞬間には長屋から飛び出て村を駆け回り、二人を知る人々に息を切らしながら報せて回ったのだった。
女の腹は、日が経つごとにみるみる大きくなっていった。
男はこれまで以上に懸命に働き、米や野菜を買い、女に食わせた。女の腹がどんどん膨れていくのを見て、「これは男の子に違いない」とまた喜んだ。
そろそろ九月にもなろうかという頃、女が急に産気づいた。十月十日にはまだ一月以上も早く、十分な準備をしていなかった。
すぐに産医を呼び、村の女たち総出で女を納屋に運び込み、お産に入った。男は蚊帳の外でただ祈ることしかできなかった。
四刻と少しが過ぎた頃、納屋から産声が聞こえた。産声に呼応するように、男は雄叫びを上げた。そこらじゅうをうろうろと動き回り、立ったり座ったりを繰り返した。
男は今すぐにでも納屋に駆け込み、妻を褒め称えたかったが、大人しく、誰かが納屋から出てくるのを待った。しかし一向に誰も出てこない。
一刻後、白い麻の布に包んだ赤子を抱いた村の女の一人がようやく出てきた。男は声を上げて、村の女に駆け寄った。村の女はそうっと男に赤子を渡すと、蕩けそうな顔をした男に強ばった唇を震わせながら言った。
「もう一人いる」
村の女は音を立てて唾を飲み込むと、男を睨め付けた。
「あの子、畜生腹だよ」
村の女はそれだけ言い残すと、男からまた赤子を受け取り、納屋に戻っていった。男は呆然としたまま、腕に残る赤子の柔らかな感覚を思い出していた。
それからまた四刻経つ頃、二つ目の産声が聞こえた。こちらは一人目よりも弱々しく頼りない産声だった。それと同時に、納屋から今度は若い女が出てきて、何やら色々と叫んだ後、別の場所で待機していた産医の腕を引っ張ってまた納屋に入っていく。男に状況を説明してくれるものは誰もいなかった。しかし、何かとてつもなく良くないことが起こっているであろうことは、男にも察しがついた。
ばたばたと人が出たり入ったりを繰り返すうち、 女たちの着物の裾や袖に血が付いているのが見えた。女たちや産医の声の合間に赤子の泣き声も聞こえた。男はその中に妻の声を探した。
しばらくして納屋から赤子の泣き声だけが聞こえるようになった後、年老いた産医が納屋から出てきて、男の元へ歩いてきた。
「来なさい」
枯れ木のような産医は男を連れ、納屋の戸を開けた。
「穢れのことは気にせんでいい。お前さんの連れ合いは、もう」
そこまで聞いて、男は堪らず、草履を脱ぐことも忘れ、納屋の中に転がるようにして飛び込んだ。
床には血を拭き上げた跡があった。男の妻は 真っ白な顔でそこに横たわっていた。髪は汗で濡れ、束になって額に張り付いていた。ここに紅をさせば、祝言を上げたあの夜のようにさぞや美しいだろうと男は思った。
村の女たちは、男とその妻を囲んで、誰も何も言えなかった。ただ男の様子を、固唾を飲んで見守る他なかった。
男は妻の亡骸の頬を撫でた。いつものようにつるつるとして、余計な引っ掛かりの一つもなかった。畑仕事でこしらえたそばかすは、夜に散る星屑のようだと言って慰めたことがあった。こんなに柔らかで滑らかな夜空なら、俺は毎日何刻でも 見ていられるだろうと言ったら、はにかんで笑っていた。
夜空はもう、冷たかった。何を言っても笑わない。問いかけても答えない。温かくもなく、これから固く閉ざされてゆく。男が静かに、そのまなこから雫を一滴、妻の亡骸の頬に落とした時、男の後ろで赤子が泣いた。
男は赤子を見なかった。
男は赤子の泣き声に包まれながら、妻の亡骸に覆いかぶさって泣いた。
三日後、二人の赤子は山奥の寺に送られること になった。
2.
三笠山の中腹に、古い寺があった。その寺には年老いた和尚が一人と、子供が数人暮らしていた。
この寺には、戦災孤児や、病で親を亡くした子供たちが時々連れてこられ、二束三文の金と一緒に置いていかれる。子供たちは和尚とともに、寺の裏にある畑を耕したり、山を下ったところにある川で魚を捕ったりして、助け合いながら生きていた。
そこに、光道と慈円という、双子の兄弟がいた。年の頃は数えで十一、生まれてすぐにこの寺に引き取られた。
兄の光道は威勢がよく、子供たちの先頭に立ち、皆を取りまとめた。ふもとの村の人々には悪餓鬼と眉を顰められてはいたが、寺の子供たちにとっては良い兄貴分であった。
弟の慈円は、兄とは真逆で生まれつき体が弱く、皆が畑で作物づくりに精を出している間も、一人床に入ってうとうととしていたり、たまに外へ出ても、すぐに息切れして兄の光道に負ぶさって、代わりに歩いてもらう始末だった。その代わり、和尚に習って読み書きと、簡単な算術ができた。
寺の子供たちは、体力仕事は光道に、頭を使う仕事は慈円に習い、二人の兄貴分について、健やか に育っていった。
「俺たちは年の近い兄弟だと思っていたが、双子らしい」
ある晩、慈円は、自分の横に敷いてある布団に光道が潜り込んだのを見て唐突に言った。
「双子?」
「母親の胎ン中で、俺たちゃ一緒に育ったそうだ。おめェが先で、俺はそのすぐ後に生まれたそうだよ」
光道は変な顔をしながら天井を見上げた。
「そんなことあるもんかい。だいいち、俺たちは 体の大きさから何から、全部違うじゃねェか。お前は俺よりよっぽど小さいし、畑仕事すら満足にできねェ癖に」
光道の言い草に、慈円は苦笑した。
「同じ胎で育ったってだけだ。同じ人間になるわきゃないんだ」
慈円は古く湿った布団の中で身をよじって、光道 のほうに体を向けた。
「和尚が言っていたんだ。俺たちは同じ日に生まれて、同じように赤ん坊の時にここへ来たんだそうだよ」
「ふーん・・・」
光道は同じく身をよじって慈円のほうを向きながら、息を漏らすようにつぶやいた。
「あ、畜生の子って言われたことがあるんだった。村のやつらに」
「へえ」
慈円は感心したように言った。
「お前が人の悪口を覚えているとはなぁ」
「あまりしっくりこなくて覚えてたんだ。『畜生の子』って、親が畜生ってことになる。俺たちに親はいねェし、和尚は時々村に降りて経を上げたりしてやってんだろう」
和尚のことを言ってんなら、今度会ったらとっちめてやんねえと、と光道は勇んだ。
慈円は、ちがうよ、とだけ言って少しだけ首を縮めて、おかしそうに言った。
「同時に二人も子を宿すのは、人間じゃないとさ」
「俺たちのおっかあは、人間じゃねェのか?」
目を丸くした光道に、慈円は思わず噴き出した。
「人間じゃねェわけねェだろう!」
「ヘェ・・・」
慈円が珍しく大声を上げて笑うのを見て光道は少
腹を立てたが、それと同時に、慈円の体が揺れてずれたかけ布団が気になって、布団を引っぱって慈円にかけ直してやった。
「たまにお医者様が来るだろう。あの人は蘭学をよくご存じで、聞いてみたら、別に不思議なこ とじゃないんだと。村のやつらは、ただ物を知らねェから、人間を畜生だなんて言ってるだけだ」
「あのやぶ医者か?おいおい、うそを教えられているんじゃねぇのか」
「うそなもんか。外国は進んでいて、そこの学問ではそうなんだ」
光道は、真っ暗闇の中で、自分たちが赤子だった頃のことを想像した。母親はおろか、父親のことすら自分たちは知らない。自分たちが本当に双子なのだとしたら、それも頷けるような気がした。腕っぷしの強い自分と、頭の良い慈円 二人で 何かを分け合って、それで生まれてきたのだとしたら、それはそれで、素晴らしいことのような気がした。
「今日は暖かいから、ちょっと外にいかねェか。なに、まだ時間はあるし、寝坊するほど夜更かしするわけじゃねェさ」
「いいよ、行こう」
二人は自分たちの出自を考えるとき、決まって夜空を見たくなった。
本日は晴天、月や星々が寺を明るく照らしていた。
あるとき、ふもとの村々に飢饉が訪れた。冷害による不作と、病害である。寺の裏の畑と村々からのわずかな布施や寄付によって成り立っていた寺は、すぐに困窮した。和尚は悩んで、年齢の高いものから順に、町へ奉公に出すことにした。それには光道と慈円も含まれていた。
光道は体力と腕っぷしを買われ、二つ山を越え町の商家の下働きとして奉公に出されることになった。
「寂しいもんだ、俺たちが離れ離れになるとは」
慈円は一足先に寺を出る光道の手を握った。
「なに、暇をもらって会えばいい。お前も奉公先が決まったら、真っ先に俺に報せるんだぞ」
「ああ、すぐに知らせるさ」
光道は和尚にも礼をいった後、迎えに来た商人に向かって「よろしくお願いいたします」と頭を垂れた。
歩き始めると、寺の子供たちが皆、光道に向かって手を振った。光道は時々振り返りながら、それに向かって手を振り返した。
それからの光道の働きぶりと言ったらすさまじく、商家の人々は感心しきりだった。多少覚えは悪いものの、体力に任せて大人でも足の震える荷を運び、口答えを一切しなかった。そのうち店番を任されるようになり、店先に出て客引きをするようになった。それまでわずか二年ほどで、孤児の子供がその店の顔となったのである。
その商家は、長年子供に恵まれず、また主人も年を取り、跡取りを探していた。
「光道、おまえ、うちと縁組をして、この家の跡取りにならないかい」
主人はある日、光道を座敷に呼ぶとそう告げた。
「そんな、俺には勿体ない話です」
道は恐縮しながらうつむいた。主人はそんな光道を見て、微笑みながら続けた。
「勿体ないなんてことあるかい。うちはもう子供 ができないが、あいつと離縁するつもりもないんだ。しかしそれではこの家がつぶれてしまう。光道、お前がこの家を継いでくれたらどんなに嬉しいかって、あいつと話してたんだ。なに、俺が死んじまう前に、お前にはすべて教えてやる。心配するこたあないんだ。俺たちはお前に、息子になってほしいんだ」
光道は顔を真っ赤にして、息を継ぎながら言葉を探した。主人にここまで言わせたのだ、自分はその言葉に相応の言葉で返す必要がある。光道はふと、慈円のことを思い出した 寺にいるとき、慈円が本を読む横で、自分も一冊でも本を読んでいたら、こんな時にぴったりな言葉を知れていたのかもしれない。
光道は自分の不甲斐なさを思いながら、やっとの思いで一言吐きだした。
「お受けいたします」
主人はそれを聞いて、光道に向かって深々と頭を下げた。それを見た光道は、主人よりもなお深く頭を下げ、二人はしばらくそうしていた。
光道は、慈円が今どうしているのかをずっと知りたかった。ひと月に一度は寺へ文を送ったが、文が返ってくることはなかった。それを商家の女将に漏らすと、女将は驚いて、主人と交渉し、あっという間に暇を取り付けて、「会いに行って おいで!」と光道を送り出した。
光道は一日半かけて山を二つ超え、かつて自分が育った寺にたどり着いた。寺は昔と変わらずそこにあり、和尚も何も変わっていなかった。
慈円はそこにはいなかった。
「和尚、手紙は届いていましたか」
光道が言うと、和尚は言葉を濁しながら言った。
「ああ、届いていたとも。しかしどう文を返せばいいかわからず、結局そのままになっていた。すまない」
寺には、この二年の間にまた子供が増えたようだった。
光道は単刀直入に尋ねた。和尚は深く息をつくと、話し始めた。
「慈円はどこに?」
「もう隠せるものでもあるまい。慈円はお前と同じく町で働きに出ている」
「どこにです?何度文で尋ねても、知らんふりだったじゃあないですか」
「それは・・・」
和尚はなおも言いづらそうに、口を閉ざした。 光道はしびれを切らして言った。
「どうして隠すんです。俺たちはたった二人の家族です。俺に知らせられないとは、和尚、一体慈円を、どんなひどいところへやったんです」
光道が和尚に詰め寄ると、和尚は意を決したように言った。
「・・・お前がこの寺を出て一月が経ったころ、この寺で赤ん坊が死んだんだ。その時慈円は、まだこの寺にいた」
光道が奉公に出されたのは、飢饉が原因である。この寺に住まう子供たちは、まだ乳を飲まねばならないような赤子もいて、その赤子は飢饉のせいで村の女に乳をもらえなかったのだという。
「金もなく、畑の作物も冷害にやられて、万策尽き、どうにもならず死なせてしまった。その赤子は皆で供養した。慈円も一緒だ。慈円は重いものも運べないし、長いこと立ってもいられない。なかなか奉公先が決まらなかった。そんな時、男が一人やってきたんだ」
和尚は、庭にある小さな墓を見つめながら言った。光道は、自分がこの寺を出たときにはなかった土のふくらみと、その上に乗せられた岩を見た。
「男は茶屋の人間で、飢饉を嗅ぎつけてやってきた。年頃の娘や少年を買いに来ていた」
光道は和尚を見た。和尚はゆっくりと光道を見やると、目を閉じ、そして続けた。
「慈円は自分から買われていった。寺に金を入れ、子供を死なせないために。着の身着のまま、買われていったんだ」
すまない、と和尚は光道に向かって頭を下げた。 光道は時が止まったかのように一点を凝視したまま、口だけ動かして言った。
「茶屋の場所を教えてください」
茶屋は寺からそれほど距離のない小さな花街にあった。周りに寺院が多く、僧侶たちが陰間を求めて笠を目深にかぶり訪れるのだという。
光道は齡十三にして花街に足を踏み入れたが、 道行く町人や客たちにじろじろと見分された。
「ここは子供がくる場所じゃあないよ」
軒を連ねる茶屋のうちの一つの金剛が、光道に声をかけた。光道は気のよさそうな金剛に意を決して尋ねた。
「弟がここの茶屋に買われたそうなんです。会いに行きたい」
それを聞くと金剛は途端に顔をしかめた。
「あんた、そんなのやめなよ。誰が身内に、こんなところで働いてるのを見られたいんだい?やめなやめな、こんな子供にここに来させるなんて、どうかしてる」
金剛は矢継ぎ早にまくし立てたが、光道は頑として譲らなかった。
「会って話せなくてもいいのです。一目、元気に やっているのを見れたらそれでいい。二年前にここに来たらしいのですが」
光道は金剛の目をじっと見た。金剛はしばらく押し黙り、光道をにらみつけていたが、ついに根負けして通りの向こうを指さした。
「二年前、あんたと同じ年ごろの陰間なら二人入ってきている。一人は突き当りを右に曲がって 少し行ったところにある『鈴屋』という店。もう一人は手前の道をまっすぐ行ったどん突きにある『朝日』という店だよ」
そこまで言って、金剛はため息をついた。
「弟のことを思うんならね、会いに来たこと、知られるんじゃないよ。ここに来た時点で全員、覚悟決めてんだ。 骨の髄、血の一滴まで金に換える覚悟だよ。その覚悟に泥塗るような真似しないことだね」
光道は金剛に深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
金剛は光道の後ろ頭を見ながら、ふん、とだけ鼻 を鳴らし、背にしていた茶屋の中に入っていった。
最初に光道は鈴屋を目指した。 鈴屋は珍しく料理屋を併設した茶屋で、二階に酒宴場を設けているようであった。料理屋の隣にこれ見よがしに籬が取り付けられ、その中に年頃で言えば光道より年下から、上は十六か、十七くらいの少年たちが、道行く人々に微笑みかけたり、興味なさげに煙管を吹かしたりしていた。 少年たちはみな、女装をしていた。
光道は、鈴屋の籬の中にじっと目を凝らし、慈円がいないかを探した。すると、年の頃は十五ほどの少年が光道を見て笑った。
「坊や、どうしたんだい」
少年は紅を引いた唇とおしろいを付けた瞼を弧のようにして、雛を隔ててすぐ、光道の目の前に寄ってきた。
「俺の顔に似た男の子はここにはいないか」
「兄弟かい?」
少年は声を潜めて驚いたように言った。ふっくら とした頬の下に伸びる細い首がまっすぐと伸び、衣紋を目いっぱい抜いた内側のうなじには、おしろいと素肌の境目があった。光道は何となく見てはいけないものを見たような気持ちになって、うろうろと視線を逸らした。
「うーん、うちにはいないと思うなァ...・・」
少年は目を細めて光道を見ながら、年の頃はいくつ?と光道に尋ねた。
「十三になる」
「ああ、じゃあきっと、朝日にいるんじゃぁないかな。うちは一番上は十八までいるけど、朝日は十から十四までの陰間しか置いていないんだ。 きっとそこにいるよ」
来た道をもどって・・・と少年は指を指して、朝日の場所を示した。少年は少し考えて、籬の隙間から細い手を伸ばすと、光道の頬に触れた。
「いいなァ、会いに来たのか。 会いに来てくれる人がいるんだね、いいなぁ・・・」
少年は光道の頬を二度ほど撫でると、籬から手を引っ込めて、また光道の目をじっと見た。
「弟に会えたらさ、もう一回ここに来て、どうだったか教えてよ。約束だよ」
少年の口元が震えていたので、光道は思わず小さく頷いた。少年はそれを見て、また、約束だよ、と言った。
光道は少年に頭を下げて、来た道を早足で戻った。道行く男に「どこの陰間だ?」と野次られながら、通りを曲がって、進んだ突き当りに朝日はあった。
豪華な朱色の漆の壁に金色の装飾が施され、鈴屋と同様に籬もあった。籬の内側はすみれ色に染色された畳と、絢爛な花の絵が描かれたふすまがあり、中に座る少年達が羽織った着物も、鈴屋のそれとは比べ物にならない美しさだった。少年たちが下に敷いている座布団も、一つ一つにいちいち刺繍が施され、四隅に取り付けられた房は金色に光っていた。
少年たちはぼうっとしてほとんど動かなかった。たまに外を見て、誰かと目が合えば、ほとんど逸らすか、ごくわずかな確率で少し微笑んだ。光道は、離れた場所からじっと籠の中を観察した。ここにきっと慈円がいる。その一心で、くまなく籬の中の少年たちを、一人ずつ見つめ、観察し、慈円か、そうでないかを判別した。
四人目を観察し終わり、そこから少し離れた五人目に目をやった時、それは慈円だった。
寺で別れたころと、何も変わっていないように見えた。慈円はまるで人形のように、そこに動か ずに座っていた。たまにゆっくりと籬の外をくるりと眺めては、また視線を落としてを繰り返していた。三度目、慈円が視線を上げたとき、ちょうどその視線の軌道上に自分がいることに、光道は気づいた。
金剛の言葉が頭をよぎる。しかし同時に、鈴屋で出会った少年の唇が震えていたことも思い出して、光道の足は固まりその場から動けなかった。慈円の視線の軌道は、光道の予想したものと寸分違わなかった。慈円の眼が光道の姿を捉えたとき、慈円の顔が見る見るうちに蒼白になり、次いで叫び出しそうに歪んだ。
光道はいてもたってもいられず走り出した。 籬にめがけて、通行人に怒鳴られながら猪のように直進し、籬に半ばぶつかるようにたどり着いたときには、慈円の左目から涙がこぼれかけていた。
光道は慈円の名を呼びたかった。しかし、喉が縛られたように苦しく、痛かった。目や鼻の奥が熱くなって、耳元で誰かが意味のない言葉を叫び散らかしているような気さえした。
先に名を呼んだのは、籬の向こうにいる慈円の方だった。
「光道、どうして」
慈円の頬のおしろいに、一本筋ができていた。
「どうして」
慈円はなおも問うた。籬の向こうの他の少年たちは、「あら」とか「そっくり」とか言いながら、それでも騒ぐことなく、慈円と光道の様子を静観していた。
「慈円、どうして」
今度は光道が同じ言葉で慈円に問うた。
「どうして、何も知らせてくらなんだ」
光道は叫んだ。その声を聞いて、籬の隣の戸が開き、男が勢いよく飛び出したかと思うと、籬についた光道の腕を掴んで、引っ張った。
「坊主、困るんだよ」
男は光道の腕を強引に引いて、道をずんずんと進んでいった。
「離してくれ、弟なんだ、離してくれ」
光道は泣きながら懇願した。腕を持っていかれながら、何とか振り返ると、慈円は籬に縋りつきながら、何か言っているようだった。しかし光道には何も聞こえなかった。
男はひと時も力を緩めず、ついには花街の入り口まで光道を連れてきてしまった。
「次おまいをここで見つけたら、今度は腕を折る。その次は足だよ。ここは餓鬼の来るところじゃないんだ、大人しく帰んな」
光道は痛む腕を抑えながら、また懇願した。
「弟なんです、どうか」
光道は目の前の男に縋りついた。男は舌打ちをし ながら言った。
「あいつはもう朝日が買ったんだ。その金を全部返しちまうまで、あいつはずっと朝日にいるんだよ」
男は光道を振りほどいて、早足で花街へ帰っていった。
光道はその場に取り残されて、ただ泣いた。
それから光道は、商家の仕事の合間を縫って、給金から紙を買って慈円のいる朝日に何度も文を送り、返事を待った。ひと月たち、ふた月たち、み月が経とうとしたころ、ようやく慈円から返事 が届いた。
籬越しに会えたことが嬉しかったこと。 実は和尚から、寺に届いた慈円あての手紙はすべて転送されていたこと。それらは大事に保管して、仕事が終わった時や、朝起きたときにいつも眺めていたこと。
慈円の綺麗な字が並んでいた。 光道は、寺で子供たちに字を教えていた慈円の姿を思い出した きちんと食べられていること、自分は成長が遅く、十四を超えても放り出されることはないであろうこと、様々書き連ねた後に、「幸甚の至りに存じますれば、私めは御客様を選ばせていただく身分にございます。悪戯を受けることも、滅多にございません故、御心配なくお察し下されば幸いでございます。」と書き添えられていた。
まるで客人に充てるかのような文体に、光道は哀しくなった。
それから、光道は五日に一度は慈円に文をやった。慈円からも、四通に一通は返事が来た。そのうち光道は、慈円に送る文に使う紙を雑紙に代えて、墨を薄めて倹約し、浮いた分の金を貯め、まとまった金額になれば慈円に送った。少しでも慈円の返済の足しになればと願いながら、丁寧に仕事をし、商家に来る客人たちにも認められるようになった。主人や女将は光道への給金を上げ、光道は上がった給金はそのまま慈円に送った。
それを二年続けたころ、ある時珍しく慈円から文が届いた。最初は五日に一度送っていた文も頻度が落ち、金を送るときに一緒に送る程度になっていたのである。
文にはこうあった。
『身を受け入れていただくことが決まりました。もはや金銭のご支援は必要ございません』
光道は困惑した。どこのだれかが、慈円を身請けし、借金を肩代わりする。それは願ったりか なったりかもしれないが、慈円の生涯は、それでよいのだろうか。慈円は腐っても男である。今は良いかもしれないが、これから髭も生え、声は太くなり、脇や脛に毛も生えてくるだろう。そうなった慈円を、慈円を身請けした旦那は愛してく れるのだろうか。愛してくれたとして、慈円はそれを望んでいるのだろうか。
自分たちはもう十五である。光道は自分の身を 顧みた。最近ぐんと背が伸び、一年前には声変わりもした。最近は髭も生えてくるようになったし、腕や足は毛深くなった。髪の毛も少し太くなったような気がした。双子の慈円とて、それは同じことではないだろうか。
あいつは成長が遅かったけど、それでも、と光道は眉間にしわを寄せてうなった。
手紙の続きには、旦那がよい人であること、身元がしっかりしたお人であることが重ねてつづられていた。暗に「文句は言わせない」と強く言い含められているようだった。
光道は悩みながら筆を取り、祝福の言葉と、もし嫌な旦那なら、いつでもこちらに来てよい旨を重ねてつづった。
光道が商家に奉公に出て、五年目の冬のことだった。
3.
商家は繁盛し、再来年には新たに店を構えることになった。光道は齡十五にして、来たる二号店の店主となることが決まったのである。
「あと二年しかないぞ、店を切り盛りするすべてをお前に教えなくちゃならない」
「よろしくお願いします」
光道は店の仕事にやりがいを感じ、毎日をはつらつと生きていた。慈円の身請けが決まり、金銭的な不安がなくなったのも気力を増した要因の一つだった。
慈円からの手紙は、あれから来なくなった。光道は身請けというものがどういう仕組みなのかは知らなかったが、いろいろな支度や、ひいきの客へのあいさつなど、やらなければならないことは数えきれないほどあるだろうと光道は楽観的だった。おそらくは、身請けの手続きやもろもろが正式に終わり、身辺が落ち着いたころにまた手紙が来るだろうと考え、光道は光道で毎日を忙しく過ごしていた。
主人と女将の張り切りようと言ったら、光道がこの商家に奉公にき始めた当初よりも若返ったかのように、声は通り、肌はぴんと張っているようだった。
光道は慈円に金を送らなくなった分を、そのまま貯めておくことにした。慈円が身請けされて手紙を寄こしたら、祝い金として送ってやろうと思ったのだ。桐の箱に溜まっていく小銭や一分金を見てにんまりと笑う。
身請けする旦那ほどじゃあねェだろうが、俺も兄貴だからな。光道は桐の箱のふたをそっと閉めて押し入れの奥に大事にしまった。
慈円からようやく文が届いたのは、次の冬になってからだった。 夜、火を灯した明かりで文を見て、光道は目の前が真っ白になった。
『労咳を罹い、身を受け入れるお話が立ち消えとなりました』
労咳は咳やくしゃみ、微熱、肺炎を伴う不治の病である。光道は、つい先日客人の一人が、親戚に労咳が出て隔離し、ひと月立たないうちに死んでしまったと話していたことを思い出し、眩暈を抑えられなかった。
文によると、慈円は茶屋の隅の部屋で隔離され、この手紙もふすま越しに、その茶屋の金剛に代筆を頼み、自分は一度も紙に触れず文を出させたとのことだった。
光道は聞いたことがあった。遊郭で病を患った遊女は、隔離され、飯も満足に与えられず、ただ死にゆくのを皆が待っていると。 陰間茶屋とて同じことである。ましてや、慈円は身請けが立ち消えになり、もう打つ手がない。光道は押し入れの中にしまってあった重い桐の箱をひっつかんで、着の身着のまま駆け出した。朝になり、息も絶え絶えに、山を越え、走り、途中力が入らなくなり、うずくまって少し寝て、鳶や鳥の声で目が覚め、痛む足をそれでも踏みしめてまた駆け、駆けて駆けて、夕暮れに差し掛かるころ、ようやく慈円のいるであろう花街にたどり着いた。
光道はぼろぼろだった。足元では鼻緒が切れ、足袋の中で爪が割れて出血していた。桐の箱を何度もぶつけた腕は青くあざになり、着物は汗でびしょびしょだった。三年ぶりに花街に訪れた光道は、一目散に「朝日」に向かった。
朱色の漆の壁と、金の装飾は変わらず、雛の内側にいる少年達だけが変わっていた。光道は、三年前男が出てきた戸を乱暴に叩いて叫んだ。
「慈円をもらい受けに来た!慈円を出せ!」
籬の中の少年たちは怯え、騒ぎを聞いた店の者がすぐに出てきた。出てきたのは、あの時光道の腕を折ると脅したあの男だった。
「お前かい。なんだい、あいつが欲しいのか」
男はにやと笑いながら言った。
「こっちとしても願ったりかなったりだ。あいつがいれば他の陰間にもケチがつく」
そういいながら、男は店の中に入っていった。店のあちこちから、ふすまを強く閉める音が鳴った後、籬の中からも少年がいなくなった。それから少し経つと、店の奥からゆっくりと板を踏みしめる音がした。音はだんだん近づいて、今度は石畳を草履が擦る音になり、同時に、何か木のようなものが、その音に合わせてカン、カンと 鳴った。
音は、木の戸を隔てて向こう側で止まった。 戸は開かなかった。
光道は震える声で言った。
「慈円?」
返事はない。
光道は何度も呼んだ。会えなかったこれまでの分を取り返すように呼んだ。
すると、戸の向こうから小さな声がした。
「俺が死んだら、手紙を出してくれと頼んだんだ」
しゃがれ声の後に、激しくせき込む声がした。
「俺、おめぇに会いたくなかった。こんな姿をよ、誰にだって見せてぇもんか」
子供のころと同じ調子で慈円が言うものだから、光道は思わず笑って、そして泣いた。
「おめぇ、ガキの頃は殴られたって泣かなかったのに、ずいぶんと泣き虫になっちまったもんだな」
光道の目の前の戸がゆっくりと開いた。そこには、やせ細り、唇は渇き、白い顔に、目元は青い、乾いた枯れ木のようになった慈円がいた。涙と鼻水で濡れた光道の顔を見て、口元だけで力なく笑っていた。相も変わらず光道よりも背は低く、自力では立てないのか、手には木の杖を持っていた。
「早く店から出ろ、疫病神」
その後ろには、先ほどの男が立っていた。
「わかってらぁ・・・」
慈円はよろけながら一歩、また一歩と歩を進め、 ようやく木戸の外に出た。男は言った。
「円加の身請け金は十六文だ」
光道は憤慨した。十六文は、そばの値段である。光道は、男が慈円にそのような値段をつけたのが許せなかった。
光道は桐の箱を男におしつけた。
「釣りはいらねぇ。これで慈円を買ったぞ」
男はまた嫌みたらしく笑った。
「多く貰う分には構わねえさ」
男はジャラジャラと桐の箱を振り、じゃあなと言って木の戸を閉めた。慈円はもったいねぇ、とぼやいて、また咳をした。
花街の道行く人々は、労咳の感染を恐れ、こちらを避けて、離れていった。非難を浴びせるものすらいた。
「行こう」
光道は慈円を負ぶうと、花街の外を目指して歩いた。すれ違う人々は口と鼻を覆い、二人に背を向けた。
一歩ずつ歩いていると、光道にはそれが懐かしいもののように感じた。慈円が、光道の背中で呟 いた。
「こりゃ、寺にいるときみてぇだ」
慈円は幼いころから体が弱かった。まさかこの齢になってまで、慈円を負ぶうことになろうとは。光道は笑った。
背負った慈円の体は、同い年とは思えないほど軽かった。支える足は、肉がなく、皮をかぶせただけの棒のようだった。光道はわざと元気を出して言った。
「労咳なんざなぁ、こんなもん、栄養付けて、しっかり寝てりゃあなんとか治るもんさ。俺ぁ、来年店の店主になるんだ。おめぇ一人くらい増えたって、飯たらふく食わしてやるよ。そしたらよぉ、おめぇも店手伝え。俺ぁ算術はいまだに不得手なんだ」
明るい未来の話をしながら、ついに花街を出たころ、慈円が不意に小さな声で言った。
「手紙をおめぇに出したの、多分あいつだよ」
消えそうな声で、光道の耳もとに声を送る。
「あいつ?」
皮と骨ばかりの慈円の手をこすって息を吐き、温める。
「さっきの」
桐の箱を受け取った男である。光道は、「そんなわけあるかい」と吐き捨てた。
「あいつぁ、俺が労咳になってよ、飯も食わせてもらえなくなった時、たまに自分の残りの粥を部屋の中に押し込んでくれたんだよ」
だから生きれたんだ、と慈円は、光道の背に揺られながら言った。
花街を離れると、光る提灯がなくなって星々がきれいに見えた。慈円は不思議と咳をしなくなっていた。
光道は道の端にある岩に座らせるように慈円を降ろすと、自分の来ていた羽織を慈円にかけた。
「こんな薄着だと、また肺が悪くなっちまうだろう」
「おれぁ、いいんだよ」
慈円は静かな声で答えた。光道は慈円の着物の袷を整えてやった後、自分が持っていた手ぬぐいも 慈円の首に巻いてやった。
「いいわけあるかい、おめぇはこれからたらふく食って寝て元気になってよ、そいで俺の店手伝うんだからな」
光道はわざと大きな声を出した。
「そうだなあ」
慈円は、ほとんど消えそうな声で答えた。
「そしたら嫁さんをもらってよぉ、ガキこさえて、和尚に見せに行こう。二人揃ってだぞ。 おめぇはなかなか男前だし、女がほっとかねえよ」
光道は、半ば叫ぶようにしながら、慈円の手を 握った。
「うん」
慈円は息だけでうなずいて、目を閉じた。眠っているように見えた。
光道は叫んだ。
「慈円、寝るな」
光道が慈円をゆすっても、頬をはたいても、つねっても、何をしても、慈円は目を開けなかった。
「寝るな」
光道は慈円の上半身を抱きしめながら体ごとゆすった。それでも慈円は、動かなかった。
「慈円」
光道は、慈円を呼んだ。 慈円は、返事をしなかった。
光道はまた泣いた。今度は慈円は笑ってくれな かった。
「俺たちは、同じ船で育って、同じように生まれたのに、なんで、なんで・・・」
ひとしきり泣いた後、光道は、慈円の骸をまた負ぶって、空がよく見えるところへ連れて行った。
そして二人で地べたに寝ころび、並んで眠った。
二人の寝顔を知るのは、星の輝く冬の夜空だけ だった。
「はらら」- 散り散りになるさま。 ばらばら。
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