ゴッドゲーム 1話
ある朝のことである。中学三年生のアキラはカーテンの隙間から漏れる光に顔を照らされて目を覚ました。枕元に置いていたスマートフォンの画面を見ると、電源が入らない。昨夜ラジオを聴きながら眠ったが、充電ケーブルにつなぎ忘れていたのだ。枕元とは反対の、向かって右側に置かれている勉強机の上の時計を見ると、針は7時50分を指していた。寝坊した。
アキラは慌ててベッドから飛び起き、学ランを着ながらリビングに向かった。キッチンのそばにあるダイニングテーブルには、すでに空になった朝食の食器が3人分おかれ、弟のツムグが鞄を持って立ち上がったところだった。
「おはよう」
ツムグはアキラを見て声をかける。
「・・・おはよう」
アキラもそれに返事をした。
ツムグと対面の席に座っていた母は、アキラを一瞥し、何も言わずインスタントコーヒーの粉の入ったカップにポットからお湯を注いでいる。注ぎ終わると、隣に座る父の目の前にカップを置く。父もまた、何も言わずにカップを受け取って一口飲んだ。
「行ってきます」
アキラと違う制服を着たツムグはアキラの横を通り過ぎながら、両親に向かって言った。両親は「いってらっしゃい」と声を揃えて言った。ツムグが閉めたドアが、バタンと音を立てるのを聞いて、アキラはキッチンへ向かった。
冷蔵庫のドアポケットには、昨日の朝飲み干したはずの牛乳が新品の状態で据えられていた。アキラはほっとした気分で牛乳パックを取り出し、キッチンのシンク横の珪藻土のマットの上で逆さになっているグラスをとって、パックの注ぎ口を開けて牛乳を注いだ。
「遅刻じゃないの」
母が少しだけこちらに顔を傾けながら、静かに言った。父はテレビのニュースをぼうっと見ている。アキラは「うん」とだけ言って、注いだ牛乳を一気に飲み干した。空いたグラスを洗って、元の場所に戻し、何も言わずに鞄を持ってリビングを後にした。
いつもより10分遅く自宅マンションから外へ出ると、ちょうどバスが来ていた。
学校までは徒歩圏内の距離だが、バスへ乗ればちょうどホームルームには間に合う。今日ばかりはバスを使うことにした。
弟のツムグは、電車を乗り継いで通う私立の中学に今年から通っている。その中学は、アキラも3年前に受験し、見事に失敗した。小学生時代かなり勉強に力を入れ、塾に通ったり習い事を掛け持ちしたりもして、両親から期待されていたが、試験本番の日、会場で腹痛を起こし、何度もトイレと試験会場を往復し、結果、予想通り不合格となった。
アキラにとってもその結果は受け入れがたく、たびたびそのことを思い出しては、朝ベッドから起き上がれなくなった。朝食も食べられず、用意されても手を付けず残す日々が続いた。
その内アキラの朝食は食卓に並ばなくなり、両親は次男であるツムグの教育に精を出すようになった。ツムグは呑み込みが早く容量も良い。難なく志望の私立中学に合格した。
アキラの家では、アキラ以外に牛乳を飲む者はいない。アキラは自分しか飲まない牛乳を飲み干すたび、賭けをしている。
牛乳が補充されていれば、自分の勝ち。補充されなければ―――。
バスが中学校の手前にある停留所に停車する。アキラは整理券と小銭を運賃投入口に入れ、同じ制服の学生たちと列を成してバスから降りた。
三年二組の教室に着くと、いつもと変わらない光景が広がっていた。今日は男子生徒が黒板の前に一列に並び、昨日の授業のプリントを紙飛行機にして、誰が一番遠くに飛ばせるかを競争していた。
邪魔にならないように、また誰とも目を合わせないように前を通過し、自分の席に着く。
机に落書きは増えていない。アキラの机には油性ペンで知性も品もない落書きが一面に書き連ねられていた。消しても消しても増えるので、その内放置するようになった。一度雑巾でこすってすべて消してみたが、次の日の朝、同級生複数人が笑いながら極太の油性ペンで落書きを追加していて諦めた。
思えばこの中学校に入学してからアキラは散々なものだった。地域の小学校からほぼ持ち上がりのこの学校では、どこで、だれが、何をしているのかは筒抜けの状態だった。アキラが中学受験をして失敗したことも、どこの誰もが知っていた。
小学校時代、アキラがガリガリと休み時間中も塾のワークを解き、虫を取って遊ぶ同級生を笑っていたツケが、中学に上がってからのこの悪戯に現れていた。
机へは落書きをされ、教科書は破られ、中学一年生の時には弁当を持たされていたものの、弁当箱ごと隠され捨てられるので、その内購買でパンを買い、誰もいない場所を探して転々とし、隠れるように食べるようになった。最初は行動を共にしてくれていた小学校時代からの友人も、ほかに友達を作って疎遠になった。
一度教科書を破られている現場に遭遇して、大声を出してひるませて、止めようとしたが、何の効果もなく、ただ複数人に囲まれて殴られた。多勢に無勢で勝ち目もなかった。それから反応を面白がられて、定期的に殴る蹴るの暴行を受けるようになった。
重い鞄を、椅子の下の荷物置きに置くと、同じクラスの女子生徒と別のクラスの男子生徒が一人ずつ、追いかけっこをするような形でバタバタと教室のドア付近に駆け込んできた。
「鹿島!」
アキラの苗字が呼ばれた。女子生徒は嬉々として笑いながら、扉の枠に両手をついてアキラのほうを見ている。その後ろで、男子生徒が女子生徒に「おい」とか「やめろ」とか騒いでいた。
「ねー、田中が鹿島のこと暗くてキモイって! 殴っとこうか!?」
女子生徒は大声で叫んだ。教室の中にいる生徒達は笑っていた。田中は、アキラの小学生時代の友人である。中学一年生までは、途中の道まで一緒に下校していた。二年生からは、クラスが離れて、それきりだ。
田中が女子生徒の後ろで気まずそうにしながら「違うって」とつぶやいたのが見えた。アキラはそれに気づいたが、女子生徒の粗暴な問いかけに、あいまいに「うん」とだけ答えた。周りの生徒たちは「女に殴らせんのかよ」とか「うんじゃねーよ」とか冷たく言いながら、消しゴムのかけらや丸めた紙屑をアキラの頭に向かって投げた。ぶつかったところで痛くはなかった。しかし馬鹿にされていることだけわかるので、気分はよくなかった。
そうこうしているうちに、ちょうど担任が教室に入ってきて、「さっさと席つけー」と声を上げた。生徒たちはそれを聞いて自分の席に戻っていく。田中も自分のクラスに走って戻っていった。
ホームルームが始まると、担任は出欠を取り、アキラの番になると、「お前、早くその机の落書き消せよ。お前らは学校の机を借りてるんだからな」と言い放った。周りの生徒たちはそれを聞いてくすくすと笑った。
平和なものである。
教諭たちも最初はアキラとその周りの状況に多少の反応を示していたものの、アキラへの悪戯が日常になると、誰も何も気にしなくなった。
一番のきっかけは、一年に一度行われる三者面談だった。その時アキラは二年生で、ちょうど暴行が激しくなった時期だった。複数人に抑えられ、殴られ蹴られ、飽きて突き飛ばされた拍子に机の角に顔をぶつけ、大きなあざができていた。三者面談には母が出席し、まずその時の担任は挨拶もそこそこに、アキラの顔のあざに触れた。
「中学生は割とやんちゃな時期でしょう。男子生徒はみんなこのような感じで。遊びが行き過ぎることがあるんです」
アキラは、「自分以外に顔にあざを作っている奴はいない」と思ったが、担任教諭は母と話しているので、黙っていた。母もアキラに意見を求めはしなかった。
「そうですか。うちの子、要領が悪くて性格も明るくないので、多少やんちゃなお友達に遊んでもらったほうがこちらとしても安心です」
この母の返答で、教諭たちの間では、鹿島アキラに関する問題ごとの一切は深追いせずともよい、という結論に暗黙のうちに達したらしかった。それ以降、アキラの周りで起こるすべてのことに、アキラの自己責任が求められた。
実際、アキラという人柱を立てたことにより、アキラ以外の生徒の学生生活はすこぶる平和で、なぜかほかのクラスでさえも、そういった悪戯や暴行を受けるものはいなくなったようだった。
アキラとしてももう、机の落書きを消すつもりはない。積極的に何かをする、という行動力は、もうアキラにはなくなっていた。
一通り担任が名前を呼び終わると、急に「さて」と声色を変えて言った。何人かは、それで何かを察して、特に女子生徒は黄色い声を上げた。アキラが身をよじるふりをして後ろを振り返ると、一席、今までなかった机といすが置いてあった。
「もう気づいている人もいると思いますが」
いつも二人組の女子生徒の片割れが、斜め後ろの席に座っているもう片方に向かって甲高い声で叫んだ。
「転校生が来ました」
瞬間、「ワッ」という声とともに教室の温度が上がった。
担任はなぜか得意げに「落ち着け」と言った。
「じゃあ、入って」
少し間を開けて、教室の前方のドアがガララと音を立てて開いた。入ってきたのは、グレーの学ランに身を包んだ、栗色の髪をした男子生徒だった。目は丸く、鼻はツンととがっていて、口角は少し上がって、さわやかな微笑みを携えていた。
担任の横に並んで立ち、座っている生徒たちと対面した。
「じゃあ、自己紹介を」
担任が笑顔で転校生に言うと、転校生は振り返って黒板に向き直り、チョークをもって担任に目配せをした。担任が小さく頷くと、転校生は軽快な音を立てながら黒板に文字を記した。
「黒瀬壮太です。父の仕事の都合で引っ越してきました。変な時期ですが、卒業まで仲良くしてください」
綺麗な文字の横に灰色の学ランが並び、溌溂とした声で自己紹介をした。教室中に拍手が巻き起こった。
アキラも一応拍手をした。きっと卒業まで関わることがないんだろうなあと思いながら、ぼんやり、黒瀬の黒の字の、下の四つの点の書き方が少し変わっているな、と思いながら、大して音を鳴らす気のない拍手を続けた。
「じゃあ早速だが、あの席に座って。一限は俺の授業だから、隣のやつは教科書を見せてやって――」
担任の言葉が続く中、転校生の壮太は会釈をしながら最後尾の空席に向かう。机と机の間を縫う間、両脇の生徒たちは皆思い思いに手を振ったり、声をかけたりして壮太を歓迎した。
アキラはただ前を向いていた。
その日は暴行の日だった。
週に一度か二度、暇なときに暴行を受ける。その日は昼休みに、普段は誰もいない、実験室や強化の準備室が密集している場所の階段の、屋上手前の踊り場に隠れていたところをたまたま見つかった。
すぐに仲間を呼ばれ、数人で取り押さえられた。その日は、誰が一番アキラに面白いリアクションをさせられるか、というルールらしかった。
アキラに暴行するのは大体決まったメンバーで、最初は単に殴る蹴るの暴行を加えるだけだったが、次第にその暴行にも創意工夫が為されるようになった。その一つが、アキラを痛めつけたときのアキラの反応に点数をつけるというものである。
当然ではあるが、アキラはこれが嫌いだった。肉体的に痛めつけられる上、リアクションが男子生徒たちの望むものでないと「おもしろくねー」と言って暴行が過激化するのだ。かといってわざとリアクションを大きくすると「滑ってるよ」と言われてまた暴行が激しくなる。どこにも逃げ場がない。
床に数人で押さえつけられ、一人が助走をつけて飛び、アキラの腹めがけて着地するように、上履きのまま蹴りを入れる。その時、盛り上げるためなのか何なのか、全員で景気よく掛け声を出す。蹴りを入れられた瞬間、腹筋に力を入れたが、アキラの薄い筋肉を突き抜けて腹部に衝撃が走る。息ができなくなる。胃から食道にかけて一気に何かが登ってきて、少量の胃液を吐いた。ゼイゼイと喉が鳴る。苦しさで涙と鼻水が出て、首から上の体感温度が一気に上がる。痛みに必死にもがいたが、誰も拘束を緩めてはくれなかった。
さすがに死ぬかも、と空気を追い求めながらアキラは思った。まるで自分の顔の半径30cmから酸素が消えたようだった。声にならない声を上げながら、蹴られた内臓の心配をした。先ほど自分に蹴りを入れた男子生徒が、右腕を拘束していた生徒と入れ替わって、先ほどまで右腕の拘束を担当していた生徒が、助走をつけるための所定の位置に立つ。皆で楽しくカウントダウンを始めたときだった。
「なにしてるの?」
そこにいなかったはずの声が一つ加わった。踊り場からすぐ、階段を下りた場所に、例の転校生、壮太が立っていた。グレーの詰襟が、点滅する蛍光灯が照らす薄暗い廊下の中でぼんやりと浮かんで見える。
暴行していた男子生徒たちは、転校生を見て笑った。
「遊んでる!」
一人が元気に答えた。アキラを押さえつけている生徒たちも笑う。壮太もそれに合わせて笑った。
「へー」
壮太は笑って、「じゃあね」と言って、そのままどこかへ行ってしまった。
アキラは、少し期待していた。何も知らない転校生が、この暴行を止めてくれるのではないかと、淡い希望を持っていた。転校生の足音が、走るでもなく止まるでもなく、本当に一定のリズムで、ただ遠ざかっていくのを聞いた。アキラは絶望した。
その日の暴行は、その後二度同じように蹴りを入れられ、アキラの口から多量の胃液が吐かれ、呼吸に明らかな異常が認められたことで終了した。男子生徒たちはアキラを階段の踊り場に放置し、アキラは2時間ほどその場でうずくまっていたが、その後起き上がれるようになると、鞄も持たずに帰宅した。
家に着くと、母親がいた。母親は少し驚いたようにアキラを見たが、特に何も言わなかった。制服には靴の跡がつき、アキラの顔色は明らかに蒼白でげっそりとしていたが、手元の家計簿を優先したようだった。
アキラは死のうと思った。解決策がそれしかなかった。
自分の部屋に行き、靴跡のついた学ランも着たままで、勉強机の鍵付きの引き出しにしまってあったノートを取り出した。めくると、暴行や、机の落書き、教科書の破損に関わった生徒の名前と、日付、受けた被害の内容が淡々と記されている。スマートフォンで撮影し、コンビニで印刷した写真もところどころに貼ってあった。
袋入りのルーズリーフを一枚取り出して、今日の日付とともに、遺書をしたためる。何度も書き損じて、やっと一枚書き終わるころには二時間経っていて、窓の外を見ると、きれいな夕暮れで景色がオレンジと紫で染まっていた。
用意しておいた茶封筒と切手を取り出し、スマートフォンで一番近い警察署の住所を調べて、ボールペンで茶封筒に書き写す。裏面には自宅の住所と名前を書き記した。ノートと遺書を重ねて入れて、茶封筒の蓋に貼ってある両面テープを剥いで、しっかりと封をする。
少し晴れやかな気分になった。
近くにあるポストに茶封筒を投函しに行く。もう、最終の集荷の時間は過ぎてしまった。これまで何度も、ポストの位置と集荷の時間を確認してきた。明日の朝一に集荷されれば、同じ地域であればその日のうちに配達される。考えて、久しく感じていなかった喜びの感情で胸がいっぱいになった。
ふらつく足で、マンションのエレベーターを降りて、徒歩三分ほどの距離にあるポストへ向かう。ポストは必ずそこにあった。集荷の時間はいつも通りで、やはり最終の集荷時間は少し過ぎていた。
いい、いいんだ。この郵便が一日届くのが遅れたところで、何も関係ない。アキラはそう思いながら、茶封筒を勢いよくポストに投函した。中でガタンと音がしたのを聞き届けると、アキラは踊りだしたい気持ちになりながら、うまく動かない体を引きずるようにして帰路についた。
もういい、もういい。頭の中はそれでいっぱいだった。もういい、なんでもいい。終われるなら、なんでも。きっと苦しいけど、でも、それで終われるなら、まったく躊躇はない。
以前雑紙をまとめるのに使ってそのままにしておいたビニールひもを何重にも束ね、部屋のドアノブの根元にひっかけた。何度か下に引っ張って、外れないことを確認した。
今度は自分の首をビニールひもに通して、後ろ向きにドアノブにビニールひもをひっかける。何度か失敗して、ようやくひもがかかり、先ほどと同じように何度か下にぐっと引っ張った。ひもはとれそうにない。
ようやくだ。
アキラは全身の力を抜いて、全体重をかけた。
アキラは、アラームの音で目を覚ました。
自室のドアの前で、制服を着たままうずくまって眠っていた。
首にかけたはずのビニールひもは、たゆんでほどけている。
昨日、暴行を受けたことで生じていた体調不良も、嘘のように消えていた。服をめくって腹部を確認するも、あざはどこにもなかった。
立ち上がると、昨日感じていたふらつきもない。7月の朝にしては、やけに窓から差し込んでくる光が冷え冷えとしていて、何かいつもと違っているように見えた。
アキラはひとまず顔を洗おうと、自室を出て洗面所に向かった。顔を洗って、タオルで拭き、鏡で自分の顔を見ると、顔色も戻っているようだった。唇は少し乾燥していて、若干隈があるような気がするが、これはいつものことである。
続いて、リビングに向かった。ひとまず、いつもの日課である牛乳を飲もうと思った。リビングの扉を開けると、いつも通り両親からの挨拶はない。しかしその日は、いつもと違い弟のツムグからも挨拶がなかった。
奥にあるダイニングテーブルに、今日は誰も座ってはいなかった。食器も乗っていない。リビングに電気はついておらず、物音もしなかった。
全員寝坊したのだろうか。そう思いながらも、キッチンへ行き、冷蔵庫を開けて牛乳を取り出す。昨日開けた牛乳パックからグラスに牛乳を注いで飲み干した後、グラスを洗って元の場所に戻す。
今日は平日で、祝日でもない。両親のことはどうでもいいが、ツムグのことは起こしてやっても罰は当たらないかもしれない。そう思って、自分の部屋と廊下を隔てて対面にあるツムグの部屋に向かう。
何も言わず、ドアをノックした。返事はない。
「ツムグ、朝」
今度は声をかけてみた。もう一度ドアをノックする。返事はない。
「開けるよ」
一応断って、ドアを開けた。もう数年、ツムグの部屋には入っていない。ツムグの部屋は、小学生の頃に見た記憶よりだいぶ整頓されていて、よりシンプルで機能的になっていた。
ベッドはきちんと整っていて、その中にツムグはいなかった。
「あれ?」
アキラは呟いた後、少し考えて、両親の寝室に向かった。
ツムグにしたときと同じように、まずは何も言わずにノックをし、声をかけてノックをし、一応断って、ドアを開けた。
両親の寝室にも、両親はいなかった。
「ああ…」
アキラは一人、両親の寝室の真ん中で納得した。ついに家族は、自分を置いてこんな朝からどこかに出かけて行ってしまった。アキラは少し笑って、自分の学ランの腹部に汚い靴跡がついていることを思い出すと、その場で汚れを払って綺麗にした。
今日は学校には行かない。一人の一日を謳歌して、それから死んでも、警察署に遺書が届くころにはじゅうぶん間に合う。
アキラは残りの数時間を楽しむことにした。机の引き出しにしまってあった、小学生時代から貯めていたお年玉と、昼食代の余りをすべて持って、アキラは家から出た。早朝で、いつもより静かな住宅街である。声がないだけで、いつもより空気がきれいに感じる。
アキラはいつもより冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んで深呼吸をした。
まずはコンビニに行って、何か美味しいものを買って食べよう。アキラは、以前茶封筒と切手を買ったコンビニに向かった。
コンビニは24時間営業で、早朝でもピカピカとライトを点灯させている。外から見ると、客はいないようだった。
自動ドアを抜けて店内に入る。入店のベルが鳴るも、店員は出てこなかった。気にせず、スナック菓子のコーナーでポテトチップスを一袋、飲料のコーナーでコーラ、ホットスナックのコーナーで肉まんとチキン、どちらを買おうか悩んで、財布の中身が潤沢であり、今日が最後の日であることを思い出して、両方買うことにした。
レジ前で待っていても誰も出てこなかったので、レジの奥に向かって「すいません」と店員をう呼ぶ。数秒待っても誰も出てこない。
もう一度呼んでも、やはり誰も出てこなかった。
店内をうろついて、店の後方にあるバックヤードの扉を少し開けて、そこに呼びかけてみたりもしたが、やはり誰も出てこない。顔を突っ込んでみたが、誰もいなかった。
その店舗での買い物は諦め、違うコンビニを探すことにした。
アキラの住んでいる地域では、大体300~400m歩けば別のコンビニが出現する。色の違うロゴのコンビニまで歩き、自動ドアをくぐって、ポテトチップスとコーラを手に取って、レジに向かい、また呼びかけた。が、誰も出てこない。
同じことを、もう二店舗で繰り返したが、結局アキラは、スナック菓子もコーラも、ホットスナックも買えずじまいだった。
そこでようやくアキラは、四店舗のコンビニを回るまでに誰ともすれ違わなかったことに気づいた。スマートフォンで時間を確認すると、そろそろ皆、登校したり、通勤している人がいてもいい時間帯だった。歩いている人どころか、車やバス、自転車も走っていない。
人っ子一人いない住宅街に強烈な違和感を覚え、アキラは一度学校へ行ってみることにした。どうせ昼頃には死ぬ算段なので、少し顔を出してすぐに帰って、それから死んでもいいと思った。
学校へ行くまでの間、やはり誰ともすれ違わず、ついには誰にも会わないまま学校についてしまった。学校に着いた瞬間、アキラは学校から何の音も聞こえないことに気づいた。
誰もいない昇降口から土足のまま学内に踏み入る。職員室のドアを開けると、やはり誰もいない。とりあえず土足でデスクの上を飛び石を渡るように飛んでわたって、職員室に入ったドアとは対面にあるドアから出た。
一階、二階、三階、四階と、すべての廊下を走って回ったが、誰もいなかった。
三年二組の教室にたどり着き、やはり誰もいなかったので、自分の落書きまみれの机と、昨日自分に暴行を加えた五人の机と椅子を窓から外に落として、ホームルーム前に田中の悪口をわざわざ嬉々として告げ口してきた女子生徒の机には、油性ペンで全面に大きく「死ねブス」と書いた。
そこまでやると、学校のチャイムが鳴り、時計を見るとちょうどホームルームの時間だった。
平日の朝、誰も学校に来ない。夏休みでもない。
何かがおかしいが、自分にはどうだっていい。適当な椅子に座りながら、土足で誰かの机の上に立った。
死ぬと決めなければ、誰が見ていなくたってこんなことはできなかっただろう。アキラはすがすがしい気持ちになった。
誰かの机を踏みしめながら悦に入っていると、背後で教室のドアが開く音がした。
振り返ると、壮太がいた。
「あ、いた」
壮太はアキラを見て言った。壮太がアキラに「ねえ」と言った瞬間、アキラは机から飛び降りて、教室から脱兎のごとく逃げだした。
アキラが廊下を全力疾走し、階段を二段飛ばして降りていると、後ろから壮太もまた全力疾走で追いかけてくるのが聞こえた。
「待って!待って!アキラ君待って!」
「うるさい!来んなよ!」
アキラは二年ぶりに同級生に向かって大声を出した。少し喉がしびれたような気がした。
「待って!友達になろう!」
壮太が叫んだ瞬間、アキラは走るのをやめて、緩やかに減速した。壮太は完全に歩みを止めたアキラに追いついて、ぶらりと垂れ下がったアキラの左手を右手で握った。
「ね、友達になろう、僕ら」
壮太はにこやかに言った。振り返ったアキラは壮太の笑顔を見た瞬間、壮太の手を払って言った。
「死ね、ゴミ」
アキラは壮太をにらみつけて、また走って、その場を立ち去った。
壮太は呆然としながら、アキラに振り払われた右手を見た。
「あれえ・・・」
壮太は、アキラがいなくなった方向の空中をぼんやりと見つめた。すると、ブン、と音を立てて、光るホログラムのスクリーンが現れた。
壮太はジジジ、と小さく音を立てながら震えて表示されている文字を見ながら呟いた。
「友好を深めるには、手を握るといいって・・・データが古いのかなあ」
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