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記録/阪神・淡路大震災 私の体験

1995年1月17日の震災から時間が経っていますが、ある時から、年明けから自分で書いたメモを読み返し始めて、同時に見直しています。今年も見直しを行いました。noteを始めたので、こちらでシェアします




はじめに

最後に載せた写真は、オープンデータとして提供されている阪神・淡路大震災の記録写真から、「自分の記憶に近い」写真を選びました

オープンデータから選んだ写真には「写真提供:神戸市」のクレジットを表示しています

ここで選んだ写真の他にも、多くの写真がありますのでご覧になって下さい。定点観測写真も復興して行く過程がよく分かります

文章の最後に写真を纏めて載せた理由は、まだまだ心のどこかで映像を見るのが辛い、当時を思い出して辛いという方も多々居られるのかなぁと思って、です。自分の勝手な想像ですが、自身も改めて写真を見ているとしんどくなる事があるので、そのように決めました。

写真は最後に、の私の考え



長文なので、時間のある時にだけ続きをご覧下さい(時間のある時に、読んで頂きたい)


『記録/阪神・淡路大震災 私の体験』


30年、、、

あれから30年。。。 もう30年なのか、まだ30年なのか。。。

関連報道を見てると、30という数字が一人歩きしてて節目なのか?と勘違いしてしまいそうになる。そんなこと、これっぽっちもないのに。。。


発生時。。。

神戸市北区にある戸建て2階の和室で寝ていました

1995年1月17日早朝、大きな地震 。。。

枕元、30cmくらい先に、本棚の上に置いてあったスピーカーBOSE 201 が転がっていました。頭に直撃していなくてよかった。。。



それまで経験した事が無い大きい揺れだったので、家の様子が心配になって階下へ降りていきました。すると父も母も起きいて、純和風の砂壁には少しの亀裂ができて、廊下には砂が落ちていました。電気は止まっていますが、まぁ大丈夫でした

この時点では、結構、「冷静」です、、、

これは後片付けを手伝わないといけないなぁ。。。ということで、当時電車通勤をしていた 神戸市兵庫区にある会社に電話をします

電話は鳴っているようですが、誰も出ない。。。おかしいなぁ。。。いつもなら あの人はもう出勤されてるのになぁ。。。停電していて、TVも見れないので被害状況を把握できていません。被害そのものが出ていることすら、これっぽっちも想像していませんでした。あとで電話すればいいかと、片付けを手伝います

。。。

片付けが一段落して、もう一度会社に電話しましたが誰も出ない。。。もう誰か出社していてもおかしくない時間なのに!? なんで!?なんで!? 少しの胸騒ぎ。。。


衝撃を受けるTV映像

そうするうち、会社と連絡が取れていない後ろめたさも感じながら、、、お昼過ぎてからだったか記憶にないのですが、電灯が点きました

電気が復活したので、早速、TVをつけました

。。。

真っ先に目に飛び込んできたのは、阪神高速が倒れているヘリコプターからの画 。。。言葉が出ません。。。

そのときに初めて大変な事になっている事を知りました


一人で来たらよかった

母の実家は兵庫区にあります。亡き祖父は、市場で乾物屋さんを営んでおられました。旧い家だけど、太い柱も多く使われて造りはしっかりしているので大丈夫だと思うが。。。程近い場所に叔母の家もあります。様子が心配、気になるので見に行ってくれるようにと頼まれました

当時乗っていたのは、スカイライン

R32 2ドア TypeM


ここで思い出したのは、当時付き合いのあった彼女の家でした。心配する親には内緒?で、少し遠回りして向かいましたが、幸い家も無事でご両親も無事でした。ホッとしました。心配してくれた彼女も一緒に叔母の様子を見に行く事にして、二人で兵庫区を目指します

向かう時に目にしたのは、倒壊した家屋、火事の煙、一階が潰れている旧いマンション などなど。。。

「次から次へと」震災の「被害」が目に飛び込んできます。これらが「次から次へと」目に飛び込んでくるごとに、だんだんと気持ちが沈んでいったのをハッキリと覚えています


独りで来た方がよかったな 。。。

重い気持ちで運転しながら、会話は無く、重苦しい空気の中、長い時間が過ぎていきました(実際はそう長時間ではありません)


兵庫区

渋滞はあったものの無事に叔母の家に到着

家の中は、タンスが崩れていたり、食器が割れていたり、大変な事になっていました。叔母は、幸い怪我も無く無事で、片付けをされていました。手伝おうかと思いましたが、叔母の「早よ帰り」という言葉で、すぐに帰路に、、、


また、、、

外は、もう夕方で暗くなっていました まだ規制されていませんでしたから、多くの車で大混雑/大渋滞

通る道の脇で火が出ていたり、、、向かった時同様、重い気持ちで運転しながら、会話は無く、重苦しい空気の中、長い時間が過ぎていきました

またです。。。

深夜になって実家に帰る事が出来ました


大変な日々の始まり。。。

当時は、普通の生活パターンに戻るのにあんなにも時間が必要だなんて考えていませんでした

震災後後、会社はしばらく休業状態。TVで震災の状況が分かるにつれ、被災された方々の人数も爆発的に増えていきました

電車が動き始めたのはいつからか、、、

動き始めた時は全線開通ではなかったので、とりあえず動いている区間だけ乗って、あとは「自分の足で」会社に向かいました。元々は登山電車だった神戸電鉄は山間を走る区間が多かった事もあり、復旧が遅れました。電車の開通区間が延びていき、市バスが動き始めても、やっぱり歩く距離と時間に多くを費やしました

会社の就業時間も、しばらくの間は15時で終了とか、帰りは決められた駅まで団体バス(観光バス)で送っていただく、という処置がありました

当時は本当に自分の足が頼りでした。今から思うとよくあれだけ歩けたな、と

宿題?

息子が小学生だった頃、震災の様子を家で聞いて話し合う時間 という宿題がありましたが、体験話をしながら、時間は過ぎていっているんだなぁ。。。と実感しました


まずは知ること?

震災という言葉を聞くと、まず最初に車から見た炎が頭に浮かびます。閉めた窓を通しての熱気の感覚も 。。。それは、叔母に会う前もあとも、幾度と無く、、、でした

震災は忘れてはいけないものだと思います


当時、見たもの/聞こえたもの/感じたもの

これを全て伝えるのは、非常に難しいなぁって思いますが、現在は、映像からも見て感じることはできます。AR技術が発達し、その場所でスマホをかざすと当時の様子が観れる、以下の様な仕組みもあります


ただ目に入れて見るのではなく、想像力を めいっぱい めいっぱい めいっぱい 膨らませて、そこにいる人々を、建物を、空間を見て感じて欲しいと思いました


私が当時居た家は、砂壁にヒビが入ったりしましたが倒壊はせず、「街」のど真ん中の被害とは程遠い静かな田舎の住まいでしたが、毎日毎日、震災の映像を見る度、心痛むシーンが多く目に飛び込んできました


次から次へと

もう一度書きますが。。。「次から次へと」震災の「被害」が目に飛び込んできます。これらが「次から次へと」目に飛び込んでくるごとに、だんだんと気持ちが沈んでいったのをハッキリと覚えています


記録に残すということ

心に焼き付いているものを失わないように。。。自分でも忘れない様にする気持ちもあって、記録しておく事にしました

これは、私の「個人的な想い」です

2016.1.17 は、加筆修正等をしたりしました
2018.1.17 は、風邪をひいてしまったこともあり、三ノ宮まで足を伸ばせませんでした。ちょっと後ろめたい自分が居ました
2019.1.17 もう一度、改めて文章を読み返しますが、涙腺が弱くなってるようで、、、
2020.1.17 は、震災から25年でいろんな行事が行われます
時が空いてますが続けてて、今年2025年は、初めてnoteでシェア

などなど、風化していくのは目に見えてるようですが、自分にとっては、そんなレベルの出来事ではないので、今後も、毎年この文章を見直すことにしています


参考サイト

ニュースリンクについては、記載時点のURLですので、今後は表示できないかもしれません。

阪神・淡路大震災「1.17の記録」

このページで取り上げた写真の他にも、多くの写真がありますのでご覧になって下さい。定点観測写真も、復興して行く過程がよく分かります


スマホでみる阪神大震災「震災写真アーカイブマップ」

長田の変化が見れます


神戸市:阪神・淡路大震災

神戸市の阪神・淡路大震災 のページ


【特集】阪神・淡路大震災

神戸新聞の阪神・淡路大震災 のページ


2025/01/15のニュースからひとつ


2025/01/16 のニュースからひとつ





写真




写真提供:神戸市
写真提供:神戸市
写真提供:神戸市
写真提供:神戸市
写真提供:神戸市
写真提供:神戸市
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