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ある 反-反出生主義者 による想定Q&A

はじめに

◯反出生主義についての詳しい説明は省きます。
◯回答は極端化した思想を持つ 架空の人物 に代弁させています。
実際の私は 私が想定する反・反出生主義 と 反出生主義との間で揺れており、反・反出生主義を考えるには ある程度極端な思想を持つキャラクターが居た方が都合が良かったからです。
◯『よくある(?)反出生主義問答』の記事同様、おそらく随時更新します。

●なぜ反出生主義に反対しているのか

実は私は、反出生主義者の主張の大部分に共感しています。
特に 人生には100%苦痛を伴うこと、それを説明なしに人に与えることの暴力性については、私も同じように感じています。

しかし、その上で私は「人が人を生んでもいい」と主張できます。

より正確には「いかに “生む” という行為が 身勝手で、暴力的で、残酷で、殺人より重い罪とも捉えうるとしても、それを止めることは できない」というのが私の主張です。

●出生の暴力性を認めながら、それを否定しないのは何故か

おそらく私は、反出生主義とは前提とする倫理観などが異なるのでしょう。

反出生主義者は、悪をなす事は絶対的に良くない と考えているのだと思います。
一方で私は、人は悪いことをしてもいい と考えています。

そもそも善悪とは 一見明確なようで、実際は個々の解釈で異なるものです。
何を以て悪とするかも人それぞれでしょうから、仮に 個々人にとっての悪を全て取り上げて 人類全体に適用しようとすれば、全ての人が一切の行動をとることができなくなるでしょう。
だから私は、「悪をなす事は絶対的に良くない」とは考えていません。

ただ、いかなるコミュニティに於いても「自身がされて困る事、自身の身内がされて困る事等は 自身も実行しない」という点だけは最低限のルール化できると考えています。
なぜなら、「自身が取り得る言動は、他者も同様に取り得るから」です。
そのため、ある個体に害をもたらす行為は規制されます。基本的に各国で共通してみられる法律や道徳の内容は、そうした “盟約” を明文化したもの なのではないでしょうか。

●暴力的な行為は是正すべきだ。出生も同様ではないのか。

そもそも私は「暴力的行為ならば是正の対象である」とは考えていません。

前述の通り、他者に暴力を振るってはならないのは、多くの人がなるべく暴力を振るわれたくないからだ、と考えています。
「暴力を受けたくない」という複数の意思が「暴力を規制する」というコミュニティ内での盟約、それを明文化した法や道徳に行き着いたのではないでしょうか。

だとすれば、いかに暴力的でも 是正され得ない行為というのはあります。
例えば、家畜の屠殺。これらは、対象が家畜に制限されているため、自身が対象とはなり得ません。

出生はどうか?
私(および全ての存在する者)はもう誰からも出生させられませんし、その嫌さを味わう事はありません。
だから、そんな盟約は存在し得ないのです。

対象が”未出生児”という 想定し得ない(存在する人とは異なる)存在である以上は 誰にも制限し得ない、とも言えそうです。

●人は出生と同時に死が確定する。生むことは人を殺すことと同義だ。

私は、人を殺すことが悪だとは考えていません。
生きる権利を奪うことが悪であり、かつ 法で裁かれるべきことだと考えます。

そう考えると、出生は奪う行為でしょうか?単に いずれ奪われるかもしれないモノを持たせたに過ぎませんし、私はそれを 奪うことと同列だとは思いません。

ちなみにですが、私は産まないことについては否定しません。
初めから持たせないこともまた 奪う行為ではない為です。

●あなたに良心はないのか

「なるべく良い事をしたい」という想いなら、私にもあります。
が、その良し悪しは、生きる人の間で結ばれる盟約と、個人が体験する感覚(快・不快)によって定まると考えています。

個人の欲求などを満たす為の一切の行為は、盟約に反しない限り否定されない、という事になります。
社会性のある行動さえ、社会における承認欲求を満たし 快感を得る為の行為だと考えています。

ですから、出生が個人の何らかの欲求を満たし、盟約に反しない限りは、咎める事は不可能だと思うのです。

●あなたの主張は反出生主義者に不快を与えているが、規制されるべきではないのか。

それは申し訳ないことです。
が、私は主義の中では 他者に不快を与える行為をも(盟約に触れないかぎり)認める と考えています。

反出生主義、および私の主義も含め、何かしらの主張を発する以上は避けて通れないことでもあります。
自他の主張を認める以上、攻撃自体を目的とするような主張以外は 認めざるを得ないと考えています。

反出生主義者も、新たな苦しみを生まないためには 「現存する人の苦しみ、不快は例外的に許容せざるを得ない」と考えているのではないでしょうか(推測ですが)。

●出生は、人の一生を決める賭けを 本人の命を使って行うことだ

それにも同意します。しかし、それも良くない事だとは思いません。

リスクヘッジの為に生まない事、リスクを取って生む事、どちらも親となる人の自由です。
(この場合のリスクとは、出生前から子育てにかかる諸々の費用と、自身が子どもの育て方を誤り 子どもないし周囲から咎められること 等を指します)

また、私は命の重みとやら自体が 殺人をしない という盟約を通すための共同幻想的な価値観でしかないと考えています。

●あなたが生んだ子どもが苦しんだらどうするのか、生んだ事を後悔しないか

当然悲しくなるでしょう。だから、そうならない様に努めます。
ある人を生むことは好き勝手にやってよいとしても、生まれた人に対しては当然 道徳や法や己の良心に従い ”可能な限り”幸福に導く必要があります。

また、生んだことを後悔する事も無いとは言い切れないでしょう。
その時は、私の賭けの犠牲となった我が子に 全身全霊で詫びるしかないですね。

そうならないためにも「この世は生きるに足る、生まれてよかった」と思い込める程度の幸せは与えるつもりです。

●この国・世界自体 人が生きづらい環境だ。また、どんどんそうなっていく。そんな環境に勝手に人を引きずり込んでいいのか。

仰る事は分かります。しかし、誰もその勝手を裁く事は出来ないですし、絶対的に裁くことのできない悪事は 行っても良いと考えています。
また、この世界が人を新たに存在させるに相応しいか否かは、現存する個々人の判断に委ねて良い とも考えています。

しかし、人を生む多くの人は、その判断すらしないのでしょう。
この世界に疑問を抱かない程度に良い環境に身を置いているか、あるいは考える機会が無かったかのいずれかでしょう。

●生む事は、生まれてくる人にチャンスを与える事だ。だからあなたの言う事は正しい。

賛同意見は嬉しいですが、私の見解とはややズレている気がします。
私は別に、人を生むことが良いことだとは考えていません。
むしろ、結果的に悪事にもなり得る賭けだと考えています。

ただ、仮にいかなる結果になっても 生む行為自体は否定され得ない、というだけのことです。

また私は「出生=チャンスを与える行為だ」という主張にも反対です。
「ある人が性交渉を断った場合、その時点で ”チャンスを与えられなかった個体” が生じるのか」というような問いに対して、魂や運命といった、良くない意味で非科学的な根拠なしには回答することが出来ないからです。

いわゆる “未存在児問題” については、私は大抵の反出生主義者と同様に考えている、と自負しています。

●説明責任が果たされない事についてどう説明するのか。

そもそも何のために”説明責任”という観念が存在するのでしょう。
おそらく、なんらかの行為から生じた結果について 責任を回避 する目的ではないでしょうか。

私が思う”説明責任”の解釈としては、
十分に説明や思慮に必要となる情報を与え 合意が伴っていれば、例え悪影響を与えることになったとしても 自身が責められることは回避できる、という協定なのだと理解しています。

その説明が不十分なままに他者に悪影響を及ぼした場合は、責められても仕方がないですし、被害者側も責める権利を持ちます。

出生の場合 例外なく「勝手に生むことしかできない」わけですが、ここまでに私が示したとおり、いかに悪性の行為だとみなされても、否定できません。
しかし説明がない以上、生まされた当人は親を責める権利を持ちますし、親側も自身の罪を受け入れるべきです(罰せられはしませんが)。

人を生む者は、自身が子や社会から非難される状態に至らぬよう 努めるべきでしょう。

●苦しむ人が増えてもいいのか

人は出生後 ほぼ100%の確率でなんらか苦しみを抱くことは明白です。
だから、生と苦しみを直結させ未然に防ぐべきと考えるのはよくわかります。

しかし私は、いかに誰かを苦しませる事が予見されていても、出生を否定できないと考えています(その理由はまさに、出生がいかに苦痛を与える=暴力的であっても 否定できない、という主張に立ち返ります)。

ただし、出生後の人を苦しめないように努力はすべきです。
自身が苦しみたくないならば、”出生後の人” を苦しめないべき という盟約が存在するはずだからです。

反対に、”苦しみが十分に少ないと思われる環境” に人を招き入れる事に関しては、誰にも止めようがありません。
苦しみが十分に少ないか否かは、結局個人の良心や 何に苦しみを感じるか、等を参照する他ないでしょう。

●個人の利益のために子どもが犠牲になってもいいのか

子どもが、というより、別に誰が犠牲になっても良いのです。
全ての人は、自身にとっての利益を追求すべきだと思います。

ただし、できれば盟約を守りつつ 他者から称賛される行動を取り続けた方が 継続的な利益となりえます。
(その観点から、悪事を働かない方が望ましい と言えるでしょう)

子どもを生み親となる自身が 称賛されるよう立ち振る舞うことが できるのならば、生むと良いのではないでしょうか。

●子どもを生めない、生みたくない人の事は考えないのか

いいえ。
私は 生む事を積極的に推奨しているわけではありません。
当然、強制するつもりもありません。
ただ、子どもを生む能力と欲求を持つ人が、その能力を行使する事を否定できない、と述べているだけです。

例えば出生の前後にかかるコストがあまりにも大きすぎると感じるのなら、人を生まない方が賢明だとも思います。
今生きている その人自身 の生活を重要視すべきです。

仮にこの国や世界全体が 「出生にかかるコストを出せない」状態になったとあらば、致し方ないでしょうね。
そう考えると、反出生主義は 世界的な経済破綻の加速を目指しても良いのではないでしょうか。

●いずれ人類は絶滅する、いくら種を存続させても意味がない

その感覚はわかります。
が、そんなことは考えなくてよい、と思っています。

私はあくまでも、今生きている人が好きなように生きれば良いと考えています。
(好きなように、には 新たな命を生み出すことも、新たな命を生み出すことを否定することも含みます)

その結果いつ人類が絶滅するとしても、さしたる問題ではないでしょう。

多くの反出生主義もおそらく、人類を意図的に滅亡させたいわけではなく「反出生主義を推進した結果 人類が早々に絶滅することが予測できるが、さしたる問題ではない」と考えているのではないでしょうか。
(中には、人類全体の安楽死を望む派閥もあるかも知れませんが…)

●人類は地球に害をなすから早々に滅ぼした方がよい

地球にとっての害、生態系にとっての害とは、一体なんなのでしょう。

そもそも、地球が自ら意図して緑豊かな惑星になったのでしょうか。
たまたま液体の水が存在し、たまたま生命と呼ばれる機構が発生し、それらが表層を覆い尽くしただけのことです。
仮に地球上から全ての生命が消え去り、かつてのように岩石ばかりの表層になったとして、誰がそれを憂うのでしょう。

結局は今生きる人間が持つ現状維持バイアスが、環境の保持を望んでいるだけなのではないでしょうか。
でなければ、地球やその他生命に 擬似的に意思を持たせる思考遊びでしょう。

●暴力性を認める、とするなら反・反出生主義者は野蛮な考えの持ち主だ

まず、私の様な一例のみを取り上げて 同様の主義者全体を野蛮と決めつけることは しないほうが良い という点は強調しておきます(きっと別の論を以て反出生主義に反対する人もいるでしょうから)。
なので、こちらは 私個人の主張に対する反対意見と想定します。

少なくとも私は、確実にある意識に苦痛を与える出生の暴力性や残酷さを認めた上で 出生を是としているため、そう言われても仕方がないでしょう。
(正確には否定できないと考えているだけですが、実質是としているのでしょう)

しかし私の主張には、人の野蛮さをも容認することをも含んでおり、「野蛮である」との批判により私が考えを改めることはありません。

また、以下は付け加えですが、
多くの人は反・反出生主義や出生主義者を志すわけでもなく、単にこれまでの慣例をそのまま受け入れているだけだと思います。
ですから、私が如何に野蛮だとしても、その他 人の出生を志す方々全てがそうだとは思いません。
ただし、以降でも少し触れますが その無知性も好ましいとは思いません。

さらに反・反出生主義や出生主義者を野蛮なものだとして批判する場合、反出生主義における「現存する人が出生する権利の否定」も、ある価値観からすれば野蛮と捉えられうることには 留意すべきでしょう。

●仮に反出生主義が野蛮だとしても、それは実行されれば数百年と経たずに終わる。反・反出生主義の推進は野蛮な行為を永続化する。

仰る通りですし、それで問題ないと考えています。

反出生主義が「出生という野蛮な行いを終わらせるための 野蛮な考えや行い」だとしたら、私の主張は「あらゆる野蛮な考えや行為の存在を認めること」です。
(法や道徳といった盟約から逸脱しない限り、という条件付きではあります)

その意味で反出生主義の存在自体は、いかに野蛮な考えであっても私の主義では容認されます。
ただし、”蛮行を否定する為の蛮行” というパラドクスのようなものだと認識しています。

●反出生主義を黙殺したいと思うか

いいえ。

確かに その主張自体は私の主義にそぐわないですが、それを広める事自体は私の主張の中でも容認されます。

また、ここからは私の個人的な想いとして、”出生することの暴力性” には大いに共感します。
「生命の神秘」などといって無条件に出生を持て囃す人々、「親に孫の顔を見せるため」という一過性の理由で生まれる子どもが多くいるこの世の中において、そこに一石を投じる思想の存在自体は、広まっても良いと思います。
(誰が如何なる思想に基づいて人を産んでも構わないのですが、出生を暴力とみなす価値観の存在も考慮すべきだ、と思っています)

●これまで 身勝手な暴力 が許されてきたとしても、否定することも可能だ

可能性はあると思います。
「これまで正しかったこと」「否定されてこなかったこと」が、「これからも同様に正しいこと」を保証するとは言えませんから。

ぜひ、否定してみてください。
私が再反論しきれなかった時、おそらく私の主張は瓦解します。

ただし反出生主義者の方が反論される場合、うまく条件付けするなどして 自身の活動をも否定してしまわないよう、注意された方が良いかとは思います。

●あなたの主張では、私の反出生主義は変えられない

きっと、心の優しい方なのでしょう。
人の暴力性を容認する私の思想を 無理に押し付けようとは思いません。
反対に、あなたの優しい考えが 横暴な私の考えを変えることもないでしょう。

ところで、あなたが反出生主義者である以上、あなたが次の世代を残すことも無いのでしょうか。
それは、本当に心の底から残念です。
私は、できればこの世界は優しい心で満たされて欲しいと思うので。

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