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ばあちゃんが藤井風を覚えた記念に書きます



9月のこと。

うちの祖母が、遂に藤井風というアーティストの存在に興味を示した。これまで何度か伝えてきても流されていたのに。きっかけは、9月4日のFree Liveの映像をニュース番組で見たからだそう。


「あの藤井って人、すごい人気なんじゃなぁ。ほんでも謙虚なこと言っとって感心したわ。しかもずっと岡山弁で喋っとん!」

「うん、すごい人気よなぁ。歌詞も岡山弁いっぱい使っとんよー。」

「藤井……嵐じゃったかな?」

「いや、笑 藤井、風!笑」

「あー、風って書いとったんか。ほんで?」

「……ほんで?」

「じゃけん、風って書いて何て読むん?」

「かぜ、よ。」

「へ?空とか海とかの、風?」

という具合に、うちのばあちゃんは藤井風というアーティストを知り、好きになった。


2021年は「風」の時代だと有名な占い師が言っていたことを記憶しているけれど、風って藤井風のことだったん?と本気で思う。きっと、2021年は彼の音楽に救われた人がたくさんいる。

祖母には風という名前自体が新しくて驚いたそうだけれど、私は彼の存在を知った時、まさか岡山弁の歌が登場していることに心底驚いた。

生まれて初めて岡山を飛び出した1年間の間に、岡山出身のシンガーソングライターが全国で有名になっていた。ちょうどこちらに戻った頃にリリースされていた「青春病」という彼の楽曲を初めて聴いた私は、その古めかしさと新しさ、懐かしさと儚さが、心地良いと思った。


なーんて、音楽のない世界なんて考えられない!と思う程には音楽が好きだけど、音楽を語れるほどの知識もない私。でもこの曲は総じて”新しい”と、ド素人の私にも言わせてほしい。

歌詞に出てくる「どどめ色」が気になって検索もした。単純な私は青春と聞けば、若干白んだ水色寄りの青空の色をイメージしていたけれど、どどめ色は青紫色というか黒紫色のような色らしい。

青春って爽やかで甘酸っぱい貴重な時間だと描きがちだけど、その青春を過ぎた地点から見るとそんな色に見えるっていうことかな?そこにすがっていないで進もうよってことか、というのが私の感想。



そして私はすぐに他の楽曲も聴きたくなった。すると、「何なんw」という歌に出逢った。


まさに、何なんこの歌!と思った。何なんという言葉がこんなにオシャレ且つインパクトのある言葉だったとは驚いた。いや、彼がそう料理したからなのかな、素材を活かす系の料理。もしかして、岡山弁って可能性に満ち溢れているのかもしれないぞ、とその時思った。


「何なん」という言葉は、本当によく使う。
怒った人や相手の言動に引いた人がちょっと低めの声で「え、何なん」とも言うし、からかわれた時に「もう!何なん!笑」とも言うし、説明を聞いてもちょっとよく分かりません〜と思う時も「えー、何なんこれ?」と言う。面白い人に対しても「もう〜何なん〜笑」と笑ったりする。岡山県民の日常に、「何なん」は万能である。


されど、私はこてこての岡山弁が好きではない。理由は、キツく聞こえるから。これは怒られてるの?この人たち喧嘩してるの?と聞こえる会話に溢れている。

でも結局のところ私も、喋れば喋るほどに岡山弁が出てくる。「はよしねぇ。(早くしなさい)」だけは岡山弁を知らない人を驚かせてしまうから絶対言わないぞ、と思っているけれど、母はバリバリにそれを言う。

藤井風の出身地も田舎と呼んでいい町だと思うけれど、彼のように自分のことを「わし」と呼ぶ人は、おそらく岡山の中でも田舎の方。うちの祖父も父も、自分のことをわしと呼ぶ。


しかし、彼が岡山弁を使った楽曲は、オリジナリティーと言葉遊びに溢れ、嘘偽りのない気持ちを歌に込めていると感じられる。そしてそれらは日本中或いは世界中のひとりひとりの心に届いて、馴染んでいる。と、動画のコメントなどを見て思う。

飾らない、隠さない。だからこそ人に真っ直ぐに届くんだなぁ。と思った。

しかも、彼のトークで出てくる岡山弁はキツく聞こえない。岡山弁がキツいんじゃなかった。薄々気付いていたけれど、私の家族の口がよろしくないだけだ。




9月4日に日産スタジアムで行われたFree Liveは無観客になったものの、無料でYouTube配信された。

広い広い芝生のど真ん中に、グランドピアノとひとりのアーティスト。初めて見る光景だった。私にはそれが、「神聖」に映った。

初めて彼を見た時から思っていたけれど、本当に柔軟で落ち着いている。その柔軟さは彼自身の芯の揺るぎなさがあってこそで、周囲の人を信頼しているからこその落ち着きなのかなと思う。知っているように書いて恐れ多いけど、そう思う。

あの広い空間を使う、というよりもはや、あの場所に住んでいるようだった。きっとそれが”場所”に対してだけでなく、人付き合いに対してもそんな感じなんだろうなぁと、容易く想像できる。



初めてHELP EVER NEVER HURTというアルバムの「帰ろう」という歌を聞いた時には、この人は人生何回目なん?と思った。

与えられるものこそ 与えられたもの


特にここの歌詞が好き。というか、響いた。


私の話をしてしまうけれど、私は25歳頃から、「30代は与える側として生きたい」という気持ちが膨らんできた。その為にも20代後半はたくさんの経験をしておこうと思った。

経験値は高く積み上げるものではなく、深みを増していくものだというイメージがある。誰かが沈みそうになった時に更に深く潜れたなら、大丈夫だよって伝えられる気がしてる。だから、どんなことでも経験することに意味があると思っている。

でも実際は、30代突入を目の前にして結局まだ自分の将来に悩んでいるので、この先誰に何を与えられるかも分からない。そもそも現状の私が与えるなんておこがましい。それでも、ただ漠然と、これまでたくさんの人に与えてもらってきたから、与える人間になりたいと思ってしまう。



25歳当時、上司にその気持ちを話すと、その歳でそんなこと思うの?俺はまだ遊ぶことしか頭になかったわ。と言われたけれど、藤井風は22歳でこの歌を世に出している。そして、自分が何を与えられるかに気付いている。

なんかもう語彙力が足りなくて本当に申し訳ないけれど、ただただ、凄い。22歳にして或いはもっと前から、全ては与えられている、だからこそ与えようという感覚を持っていた。その死生観が描かれたこの曲は、私の好きな小説を思い出させた。

今回のFree Liveだって、観客を入れていたとしても無料開催だった。お金をとらないから凄いというのも違うけれど、それでもやはりその決断って誰にでも出来ることではない。彼と彼のチームは凄いと思う。


そして何より、音楽と触れ合う彼は楽しそう。
あー、音楽好きなんだろうなぁって。それが目に見えて分かるから、彼を好きな人も楽しくなるんだろうなって、そう思う。


「常に助け、誰も傷つけない」というポリシーを持った人が、誰かのために好きなことをしている姿なんて、そんなのどうやったって魅力的だ。


そんな人の思いが込められた歌は、国籍も年齢も性別も超えて届くに決まっとる。そりゃうちのばあちゃんも好きになる。


この時代でも、
この時代だからこそ、
出来ることをする。
誰かのために。


そんな姿勢に、尊敬しかない。


2022年が何の時代なのか知らないけれど、人がつい忘れてしまいがちな思いやりや優しさを与えてくれる彼の歌が、来る年も聴きたいなと思う。



3曲オーバーしちゃうけど、この歌も。


じっくり読んでいただけて、何か感じるものがあったのなら嬉しいです^^