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好きなタイプについて


好きなタイプ、それは過去の遺産だ。


いままで「いい」と思った色んな人たちの、いや、人単位ではなさそう、色んな言動、いやそれもまた違う。


ああそうだ、きっと、私の様々な記憶から生まれた、時にはもはや誰でもないような、人間の形にも満たない影の欠片たちが、幾重にも重なって生まれたものだ。
そしてそれもまた影でしかないわけで。


とにかく好きなタイプというのは道標のように力強く私を導くものではなく、
道標のない道で、さぁ私はどこに進むのか、それを判断するのに全くの情報皆無では流石に心細いから、せめてと開く参考資料に過ぎないのではないだろうか。


つまりどこまで行ってもあくまで過去の話。



昔、好きなタイプはなんですかと聞かれた時に、その質問ね〜と思いながら、なんとなくその時頭に浮かんできた文言たちを特に精査することもなくつらつらと述べてみていたら、

「全部否定的ですね」

と言われた。


一瞬はてと思ったが、どうやら私は全て「◯◯しない人」という言い回しで回答していたらしい。
意識も自覚も無かったのだが、なるほど確かに言っていた。


それがその人にとってはひっかかったようで。


続けざま、「何をしない人、じゃなくて、何をしてくれる人、で話したほうが希望があって楽しいじゃないですか」と言われた。


面白い指摘だと思った。


私、好きなタイプトークなんてのは極めて俗世的な話題だと思っている。
というかそもそも"好きなタイプ"って結構どうでもよくて、いつもその場が多少は盛り上がれば良いかなという気持ちでしか話していない。

まぁそんなわけでだいぶ軽い気持ちで話していたので、予定外の指摘に驚いた。


ちなみにそこに希望がなくても、いやなんなら絶望が多いほうが私は俗世的な話題らしい"愉快さ"を感じるし、それでいいと思っていた。
つまり好きなタイプトークに"楽しさ"なんてはなから求めたことのない私には色々と新鮮だった。


それに、"楽しさ"を考えたとしても、楽しい会話の理由が希望的な言葉とは限らないんじゃないかな。とか、その一言を受け取った一瞬で色々と考えた。笑



とはいえせっかく面白い指摘をいただいたので、是非乗っかってみようと、何をしてくれる人、で好きなタイプを挙げていこうと思ったのだが、そうシフトチェンジした瞬間、まるで言葉が出てこなくなったのだ。


まーじでなんも浮かばない。

私、何をしてくれる人を好きと思うんだろう。


子どもの頃、子どもの私の握力では絞りきれなかった雑巾を親が仕上げに絞った、あの恐ろしいほどカチカチになった雑巾くらい頭を捻ってみたわけだが、結果ひとつも思い浮かばなかった。

結局、

「すみません、なんも思い浮かばないです」


と私が答え、
ほんのり残念な空気が流れ、そのまま話題が終了した。


ちなみにこの場合で言うと、私があの場ですぐ、なぜ思い浮かばないのか、というのを考え巡らして新しいテーマを提案することが出来、議論がまた発展したのたら、それは私としては"楽しい"会話になったのだと思う。


とにかく、誰のせいでもないが双方の楽しい会話はかなわず、話題どころか色々と終了した瞬間であった。


ただ、考えたことのないことを考える契機になったのでそれは感謝したい。


そう、あれから考えて気付いたことが二つある。

まずは、冒頭に書いた、好きなタイプとは過去の遺産だということ。

だって、好きなタイプについて考えれば考えるほど、過去の恋愛で(恋愛に至らずとも)どんなことがあったっけな、と、頭はそればかりになる。

導き出される答えのソースは、もうほぼ9割、結局自分の過去の恋愛やそれに近しい経験。
冒頭に書いたような"影"に、あの人や、あの人も欠片として参加している。もちろん誰でもない誰かも。


つまり、
私たちはいつも好きなタイプの話をする時、まるで来たる未来を見ている気でいるけれど、違うのだ。

好きなタイプについて考え、言葉を発している時、私たちが見ているのは未来ではなく過去である。

いや、なんならもはや過去そのものでもなく、主観的に描き直し続けられる過去の記憶。


そして過去の記憶から、過去の遺産としてモクモクと生まれた影が好きなタイプの正体だ。


そんな風な意識だから、私は自分の"好きなタイプ"についてあんまり興味がなかったんだろう。


過去の人は過去の人だし。
世界も私も常に流動的だし。


私から言わせてみれば、自ら生んだ好きなタイプに囚われるのは非常に危険だ。

身体は未来に向いていても視線は間違いなく過去もとい記憶に向いているので、囚われてしまっては非常に前方不注意ではないか。

どんなに有益な参考資料を開いていたとしても、手元ばかり見て歩いていていたら、転んだり、ぶつかったりしてしまう。


だから、いつだって自分の考える好きなタイプというのは信憑性の低い情報だと考えるようにして、まぁ考えたりするのはたらればで楽しかったりするけれど、囚われずになるべく前を向いて歩くようにしたいと思った。


いつだって過去というのは今の自分の頭で応用するもので従うものではないから。



あとひとつ気づいたことがあった。

◯◯しない人、という表現をする理由についてだ。

おかしな日本語で申し訳ないが、
人間、することというのは出来る。

そこに大した理由や、自分の気持ち、倫理が無くても、「する」というのは意外と出来るものだ。

ただ、「する」が倫理もってしなくても可能な行動であるゆえ、持続可能であるかは怪しい。

つまり「◯◯してくれた」で惹かれると、変わっていく相手に傷つく可能性があるわけだ。


その人の本質を覗くには、「する」というのはあまりに情報として危ういと、私は思うのだ。



補足として、倫理とは、その人の考えであり内なる正義だと思う。

誰かが決めたり強制されたりして発生する外なる正義(もはやそれは道徳ともいえる)ではなく、自ら考えて自ら生んだ内なる正義。

私はそれこそがその人がその人たる"正体"の部分だと思うし、それを見たいといつも思う。



では、逆に「しない」を考える。

人間、「しない」をすることの方が重い。

理由や倫理が必要とされるから。



子どもの頃、ゲームばっかりしてないで宿題をやりなさいと叱られたあの時を思い出して欲しい。

あの時の行動心理を本質的に考えると、「宿題すること」よりも、そこに行き着くための「ゲームをしないこと」がそもそもクソ難しかったのではないか。


もちろん宿題も嫌だけど。


結局ゲームを取り上げられたり、親に叱られたり、せざるを得ない状況になれば「宿題をする」ということ自体に大した理由や自分の気持ちがなくたって、とりあえずやっていた人が殆どではないだろうか。

例えばそれでも「宿題をしない」を選択したのであれば、恐らく理由があり、そこにその人の正義が存在する可能性が高い。

この例えで何が言いたいかというと、
「する」は「こなせる」けれど、「しない」は「こなせない」。ということ。


何度も言うけれど、より、理由、倫理、心のコントロールが必要とされるから。


例え下手で話をややこしくしてしまったかもしれない。ごめん。少しは伝わってると思いたい。

直接的な例えを軽く言うと、浮気性な人でも、彼女に対して安心させる言葉をかけたり連絡を入れたりすることはまぁ出来ると思う。(上に書いたように持続可能かは別)

でも浮気しないこと、となるとそれはすごくすごく大変で難しいことなんだと思う。そういうこと。



とにかく私は「しない」ことにその人の正体に近い姿を見るんだと、自分のことだけれど気が付いた。

今まで考えたことなかったからこれは結構いい発見である。ラッキー。



つまり恋愛の話に戻すと、何かをしてもらって好きになることは少なくて、逆に、何かをしない姿や姿勢で好きになることの方が多い。

で、好きになった人から何かそういう喜ばしいことをしてもらったら当たり前にバカ嬉しい。って感じ。



そういう考えなもんで、あの時、好きなタイプを聞かれた私は「◯◯しない人」という表現を無意識にしていたんだろう。
(といってもそれも話半分で聞いて欲しいくらいの密度の情報だが)



さて、好きなタイプについて、なんてタイトルをつけてしまったから、私ガチ恋勢(そんな人がいるのか)は今頃がっかりしているだろう。

だって私の好きなタイプを知れると思ってワクワクとこの記事を開いただろうに、開いてみたら私の哲学をツラツラと長文で聞かされて、非常につまらない時間を過ごさせてしまったことかと思う。



なので、最後に、ご期待にお応えして、私の好きなタイプを発表してこの記事を終わらせたいと思う。


あ、こういう時、大体どんなルックスの人が好きなのか聞きたいんだろうなと感じることがあるのだが、
ルックスで誰かを好きになることはないし、(勿論かっこいいとか思う時はあるけどそれ以上もそれ以下もない)、人の外見に関して公の場で声を大にして言及することはそれこそ私の正義に反するので、あったとしても言いたくない。



そして○○しない人、で挙げるとキリがないので、
まとめるとするならば


「私と同じか、似たような正義をもっている人」


これが私の好きなタイプである。

まぁもっとも、これまでの人生ロクな恋愛をしてこれてない私なので、全ての発言は聞き流してもらいたいところではあるのだが。

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