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存在の在処


私は私の人生を愛している。

ということに気が付いた。


大体、私は自分を愛するということについてばかり考えていて、それ自体がもう究極の自己愛なのかもしれないとも思うのだけど、とにかくそういった考えに人生の大半を注いでいる。

なぜそんなことばかり考えているかというと、結論から言うと孤独になりたくないからだ。


遡って中学生の頃、学校の課題図書で夏目漱石のこころを読み、ある文章に大変驚いた。
今本が手元にないので原文お母さんでここにその文章を残すことができないのだけど、記憶を元に要約すると、「私は私の味方ができなくなった時、いよいよ本当の孤独を知った」といった旨の文章だった。

それまで孤独が成立するか否かは他者の存在に委ねられていると信じて疑わなかった北澤少女はとにかくもう大変な衝撃を受けた。

そして衝撃的であると同時に私にとってとても受け入れやすい考えだったので、私のあたまとこころにぬるりと入ってきて、あっという間に私のものになった。
私のものになったというとなんだか卑しい印象を受けるが、余談、哲学は"考えること"自体なのでその人一人のものだけれど、思想は"考えたこと"なので誰か一人のものではないと私は思っていて、こうして自由に無料に頂いたのち合点がいけば自分のものにできるというシステムなのだと私は理解している。フリーなところが思想のいいところなのだ。だから卑しくないのだ。ぜひ信じてもらいたい。


で、その文章に触れた瞬間から、周りに人っこ一人いなくなったとしても、私が私の味方でありさえすれば本当の意味での孤独は訪れないし、逆にどんなに周りに人が集まってくれようが私が私の味方でいれずにいたら孤独であるのだ、という考えが私の中で確固たるものとなり、なんやかんやで本日の私がいる。


もちろん物理的な孤立に全く問題がないわけではない。残念ながら社会的な生物である以上人間が一人で強くなるには限界があって、寂しさというのは頻度や質量こそ人それぞれだとしてもゼロにはできない。恐らく。
寂しさをこじらせた結果それが自己否定に繋がり自分の味方でいられなくなる瞬間が訪れてしまう、そんな可能性が目に見えている。
なので他者の存在の偉大さは拭いきれない。

ただ、砦は自分自身だということだ。


それからというもの、憎んでも恨んでも最後まで私は私の味方でいようと思いながら生きている。
もちろんその尊きモットーに反してしまう時もあるけれど、基本的にはずっとその気でいる。


味方でいる、と、愛してあげる、はまた違うことなのだけど、確実に関係はしているので、味方でい続けるための活動の一環として、私は自分を愛することについてよく考える。というわけだ。

しかし自分を愛してあげるということは考えれば考えるほど難解で、その気はあれど、全てを理解したうえで実行できているかといったらそうではない。もしかしたら私はまだ何もかも全く理解していないかもしれない。

何故こんなにも理解できないかというと、なにが、どこが、自分なのかイマイチ分かってないからだ。
愛するという感情や行為のことはなんとなく分かるしたまに偉そうに言語化したりするのだけど、自分という存在、強いては人間というそのものの存在がどこにどうあるのかというのは一生分からずにいる。

私は、自分のことも、他者のことも、正直なところ、部分部分でひとつずつ細やかに愛でているだけなんだと思う。
それも素晴らしいことではあるけれど、究極は丸ごと愛したい。丸ごと愛したいのに。
丸ごと愛するために存在自体の在処を私はずっと考えている。それがつまり私の自分を愛することについて考える、ということの内容だ。


まぁそんな大きな議題の結論にここで突然至るわけではなく、あくまで私は今考えている頭の中を文章にしてパチパチと打っているだけなので、このnoteもこのまま考えながら終わるのだけど。



ここでいちばん初めの言葉に戻る。

本日ついに、私は私の人生を愛していることに気がついた。

朝起きて、いつも通り色んなことを考えながらまともな人間のふりをしていたら、ふと気がついた。

そして、それは私の求める「丸ごと」に極めて近いのではないかと思い、思考整理の為にもこのnoteを書き始めたというわけだ。


これから先、自分の人生がどうなっても愛おしいな、と、そう思った瞬間、脳汁が頭皮に染みた。結構興奮した。恥ずかしげもなく今まで秘密にしていたことを披露するが、考えごとが発展するとめちゃくちゃ興奮する。正直今もこの文章を打ちながら動悸がすごいことになっている。

そう、今までの人生も、苦しんだりずっこけたり病気したり狂ったり色々あったが愛おしい。
これは一つ一つのトピックがそれぞれ愛おしいというより、全部ひっくるめて総合的に存在的に愛おしいのだ。上手く言葉にできないのだけれど、とにかくそうなのだ。



人生、人生が私の存在の丸ごとに近しい気がした。


見た目なんてものは言うまでもなく極めてその人の断片でしかないのだけれど、なんということか精神すらももはや断片に過ぎないのではないかと思い始めてきた。

断片ではあるが、たかが断片されど断片ということで、全てが重要なパーツなはずだ。何のパーツかというと、私の人生をつくりあげるためのパーツである。

全ての断片が塊になって、私の人生として毎瞬更新されながら、私を常に存在させているのかもしれない。
つまり、人生を愛しているということは、その全ての断片を許容しているということに繋がるのではないだろうか。断片に対してはあくまで許容なのもポイントだ。人生を愛せてさえいれば、一つずつを随時愛する必要などない。むしろ自己嫌悪すら人生という大きな流れで見たら愛おしさのよいスパイスだとも言える。


ではなにが私の人生、はたまた私自身をつくりあげる断片として一番でかいかというと、それこそ、考えること自体だと思う。

ああ、さっきは哲学と思想について余談だと思ったから余談と言ったが余談ではなくなってきた。
哲学はその人一人のもの、つまり考えること自体がその人をその人たらしめる一番の成分だと思う。そしてそれはその人の人生をつくる一番の成分であるということ。(今気づいた)

私を私たらしめるのは考えたことではなく考えること自体。

思想は道標で哲学は歩みそのものだ。私はどちらも好きなのだけど、その人の存在が宿るのは思想ではなく哲学な気がする。そして哲学が人生に、、、なるのだ、、、、人生のうえに哲学があるのではなく哲学のうえに人生があるのか、、、、そういうことだったのか、、、、、うわああああああ




今、完全に、読んでくれている人を置いて行ってしまっている自覚があるので頑張ってまとめたい。
もう箇条書きにしちゃう。


・今朝、自分の人生を愛していることに気づいた
・そもそも私が「自分への愛」をしょっちゅう考えているは、自分こそが最強の自分の味方でいてあげるため
・人生って多分私という存在そのものなのかも
・外見やら性格やら色んなパーツが集まって人生が瞬時更新されてる
・その中でも「考えること自体」がパーツとしていちばんでかい


ということを長々と書いてたわけだ。
でも仕方ない、考えながら書いてたから、整理するために書いてたから。みんなはこんなとっ散らかった文章をよくここまで読んでくれました。ありがとう。


でもおかげで今まで分からなかった「自分を愛することとは」を少し理解できた気がする。
この気づきを経て、以前よりは、私が私を、はたまた誰かを丸ごと愛せる日に近づいたはずだ。


うん。自分の見た目や性格に嫌気がさすことは多々あるが、やはりどう考えても私は私の人生を愛しているし私の生き方が好きだ。
人生とは今までの人生、という意味ではなく、今までもこれからも全部だ。
そして私の生き方とは、下手なことは考えない。これに尽きる。下手なことというのは「こういう時は/こういった年齢になったら、こういったことを考えなくてはいけない」などという動機で考え始める内容のことだ。あ、仕事のことなるとまた別だけどね。


ただその時考えたいことを、考え始めてしまったことを、くだらないこともたいそうなことも、とにかく考え続けたいと思った。

それが私自身を存在させるのだから。私自身になっていくのだから。私自身の人生への愛着に繋がるのだから。
私が私を孤独にさせないためにも。

それがいつの日か私が私を丸ごと愛することになると願ってみる。



おわり。

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