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世界は果てしない

子どものころ、わたしが好きなマンガやアイドル、テレビ番組を母が知らないことを不思議に思っていた。わたしが母の子ども時代のことを知らないのはしかたがない、生まれていなかったのだから。同じときを生きているのに、なぜ知らないのだろう。こんなに人気があるタレントなのに、みんなが知っているマンガなのに。わたしが知っている世界を母が知らないことが不思議でたまらなかった。

少し大人になって、その理由がわかった気がした。大人になると、子どものときのように自分や自分の周辺だけが世界じゃないんだ。家族や恋人、仕事やお金や将来の方向性、いろんな関わりが増えて考えなければならなくなる。そうか、年を重ねるにつれて、見える世界が広がるんだ。小さな視野から広い視野へ。

同時に、時間軸だけではなく空間的な横への広がりも意識するようになった。わかりやすく言うと、学生時代の国際交流だ。世界には多様な人がいて多様な文化がある。同じ時代、同じ年齢であっても、自分が経験したことのない、考えたこともない世界がある。そうか、多様性とはこういうことなんだな、そう思っていた。

そして今。子どものときの、自分が見える世界が全てみたいな感覚も、年を重ねれば見える世界が広がるという考えも、国際交流すれば世界がわかるみたいな考え方も、違うなと思う。

noteをはじめ、さまざまなSNSには、今まさに同じ時代を生きる人が発信する多様な世界があふれかえっている。ものを作る人、コミュニティーを作る人、歴史をさかのぼる人、未来に夢をはせる人、病と闘う人、悩む人、何かに没頭する人。同じニュースを見ても感じ方は多種多様だ、同じ日本人であっても。当たり前のことだが、日本語教師として様々な国の人と接していると、ある種の「ステレオタイプな多様性」に陥ることがある。そうではないと、はっと気づかされる。

世界はレイヤーだ。時間軸でも空間の広がりでもなく、さまざまな価値観が何層にも何層にも重なってできている。少し前まではそのレイヤーが見えにくかったし、ある意味カテゴライズされた層しか見られなかった。でも、だれもがやる気になれば発信することが出来る今、見たことがない層を見ることができるようになった。こんなにいろんな人の世界に触れたことはなかった。

「多様性を認める」とか「多様性を受け入れる」とかよく聞くけれど、自分が知らないだけでそもそも存在していて、それがあるからこその世界なんだな。まず、「知る」ことから始めよう。世界は果てしない。


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