言葉が示すこと
日本語教師になる前、卒業旅行で訪れたエジプトで現地ガイドの男性に出会った。カイロ大学で日本語を学んだ彼は、流暢な日本語でわたしたちの旅をサポートしてくれた。
数日行動を共にして他愛のない話をするようになったころ、何の話題だったか彼がこんなことを言った。
「私は色が白いから…」
「え?Mさんは白くないよ」
わたしは心底驚いて彼に言った。彼の肌は黒褐色だったし、どう見ても白くは見えなかったのだから。すると彼は、
「いや、白い。ヌビア人はもっと黒いから」
確かに、ナイル川ツアーで船を漕いでダンスを踊ってくれたヌビアの人たちの肌は、もっと黒かった。
「それはそうだけど、やっぱり白くはないんじゃない?」。
そんな感じで話が終わったように記憶している。
激辛料理が得意という人が、辛い物が苦手だというタイ人より辛味に弱かった。酒が強いと自負する人が、テキーラをショットで飲む人たちに太刀打ちできなかった。「辛い」「強い」などの程度は相対的なものだから、何を前提にするかで変わってくる。絶対的な「辛い」「強い」ではなく、相対的な意味での「辛い」「強い」。こんなことは日常よくあることだ。
エジプトの彼の話も同様だろう。絶対的な意味ではなく、相対的な意味での「白い」。
ただ、わたしは彼が前提とする事柄を共有していなかった。ネグロイドもいくつかに分類されるということを知らなかったし、三大人種の観点でしか見ていなかった。だから、彼の発言の意図を理解できなかったのだ。
わたしの恩師がこんなエピソードを話してくれたことがある。ブラジル人に「桃太郎」の話をしたときのことだ。
「・・・おばあさんが川で洗濯をしていると、大きな桃がどんぶらこどんぶらこと流れてきました。おばあさんが、桃を拾って中を割ってみると…」
「えっ⁉ おばあさんは水泳の選手ですか⁉」
日本人なら、おばあさんが泳いで桃を取りに行ったとは思わないだろう。川岸で洗濯しているおばあさんの手元に桃が流れてきた、少し遠くても手を伸ばせば届くところに流れてきたのだろうと。
しかし、ブラジルで川というとアマゾンのような河をさすのだろう。対岸が見えないほど幅が広い濁流の中、はたして桃が見つかるのか。見つかったとしてもどうやって拾うの?
「前提」が違うと、一気に言いたいことが伝わらなくなる。言葉を交わしてお互いにわかっているつもりだが、頭の中に描いている光景は実は全く異なっていたりする。
日本語を教える現場では、このようなことが割に起きる。日本語に限らず、語学教育の現場、我々の日常の何気ないシーンでも起こっているのかもしれない。
言葉は多くの具体的な事象を抽象化した記号にすぎない。その記号を自分だけの前提で捉えてしまうと、相手の言いたいことを理解できないし理解してもらうこともできなくなる。
言葉が示すこと。言葉は文化だと言うけれど、本当にそうだ。互いの言葉を知るということは、互いの文化を共有することなのだと思う。