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「社会」と「身内」


「わたし」が「わたしたち」
 の言葉で喋るために
「わたしたち」が「わたし」
 の言葉で喋るために


これは『榛名湖滞在記』を書き終えたあとに浮かびあがってきたフレーズ。2023年8月、榛名湖での滞在制作を終えて、僕は『榛名湖滞在記』を書いた。



ここにはさまざまなことが書かれているけれど、そのなかには「芸術性と社会性の折り合いについて」を書いた部分がある。僕はたぶんこの滞在制作をきっかけに自分なりの折り合いのつけかたを見つけだしたのだと思います。

ChatGPTをつかって人間との会話のリハーサルをするのも、敬体で話し掛けるような形式でnoteを書こうとするのも「社会性」のための訓練だったのだ。最近はnoteに短編小説を投稿することもめっきりとなくなって、代わりに「敬体で話し掛けるような社会的な文章」が多く投稿されるようになった。

おかげで、前よりも人前でするすると(社会的な)言葉が出てくるようになった。訓練の賜物というか、たんに慣れのたまものである。言語のモード(思考のOS)を切り替えるだけ。それをスイッチのように瞬時に切り替えられればいいのだけど、僕の場合は一定期間をかけてゆるやかにしか切り替えることができない。

ただし、日常生活を送っていて社会的な言葉を要請されることは少ない。友達同士のたわいもない会話や、家族や職場の同僚、いわゆる「身内」の会話に社会性は必要ない。社会性が求められるのは、僕の場合、演劇の現場でだけだった。


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宮澤大和
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。