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プロット(筋書き)無しで書く理由
バーバラ・ミントが著した『考える技術 書く技術』を読んでいたら以下のような言及にぶち当たりました。
トップダウン型に考えを構成することから始めなさい。すべての文章をいったん書き上げてみるというやりかたは絶対にやめてください
トップダウン型っていうのは最初に大きな結論やテーマを提示し、そこへ向けて論理を展開する文章構造のことです。詳しく知りたい方は、ぼくが過去に書いた記事を読んでみてください。
わりに簡潔にまとまっているし、最後にはバーバラ・ミントの考えかたをどうやってAI時代に活かしていくか? なんてことを考察しています。
さて、話を戻します。
「すべての文章をいったん書き上げてみるというやりかたは絶対にやめてください」という意見は、ぼくにとってなかなか耳が痛いものでした。
なぜなら、ぼくはこれまでなにかを書くとなったら特段のプランニングをすることもないまま、ごりごりと文章を書いてきました。
周囲にそう言うと驚かれることが多いです。
ぼくは戯曲(演劇の台本)を書くときにも、小説のようなものを書くときにも、それから今書いているようなエッセーを書く際にもプロット(筋書き)みたいなものを予め用意したりなんてしません。プロットを用意しないのにはいくつかの理由があります。第一に、
プロットを書くと、プロットを書いた段階で筆者(ぼく)が満足をしてしまうからです。
こんなに素晴らしい物語を思いついた。それはおおよそ自分の頭のなかで、プロットとして、完結している。それならそれでいいじゃないか。次の物語を考えよう……という考えかたになってしまう。
これが自分の強みであり、裏を返せば弱みであり、もっと言えば「個性」であると自覚しています。
つまり、ぼくは自分の物語を発表するということにそれほどのウエートを感じていないのです。
それよりも物語を編み出す作業そのものに喜びを感じるために、思いついたものを形にすることよりも、新しいものを思いつく作業のほうにリソースを割きたいと考えてしまうんですね。
そういう意味で演劇は、ぼくにとってとても相性の良い創作方法であると思います。
戯曲が出来上がるのを待ってくださっている俳優がおり、俳優とつくる演技を待ってくださっているスタッフがおり、最終的に完成した演劇の上演を待ってくださっている観客の皆様がいる……待ってくださっている方々の存在が形にすることを強いてきます。
このプレッシャーがなければ、ぼくは編み出すことばかりに集中し、いっこうに作品を発表しなくなるおそれがあります。
もし、ぼくが小説家のような純然たる個人創作家だったとしたらJ.D.サリンジャーの後期キャリアのように発表しないための作品を自室にこもって、ひとりでつくり続けていたと思います。
「発表しないとすばらしい平安がある。安らかだ。静かなんだ」とサリンジャーは言いました。
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