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書きたいものを書きたいように書きながらも,この数年間で,書いている最中に演劇になっていく様子をたまに思い浮かべるようになったし,頭のなかに浮かんでいる演劇的イメージをもとにして台本を書くようにもなった.
1. 7月公演の台本を小説形式で書き進めている
7月公演のための台本を書き始めた。戯曲を書こうとしなくてもいいのだと思うと、途端に書けるようになる。今は小説の形式で書いている。90分間で、ものすごい文量を書いた。ずっと頭のなかでイメージしていた光景を文章にしていくのはとても愉しい。1週間前くらいに書いていた下書きよりもはるかに質がいいものになっている。
2. イメージを文章にする楽しさと、無限の可能性
頭のなかのイメージをシーンに起こそうとするとき、無限の可能性を感じる。イメージは、ゼリー状の物質みたいなもので、Aという形をとりながら、Bという形をとることもできる。それはたぶん二元一次方程式を解こうとするような感覚によく似ている。
しかし、文章というのは一本の線の形をしている。Aという形をとりながら、Bという形をとる、ということが基本的にはできない。
3. 戯曲では同時多発的な会話が可能だが、文章は一本の線の形
戯曲ではそれができてしまう(かもしれない)。戯作者が同時多発的な会話を書こうとするとき、線は二本になる。しかし、それを厳密に〈読み物〉として捉えるなら話は別だ。なぜなら人は2つの文章を同時に読むことはできないからだ。
僕のこのような主張に対して以下のような反駁が聞こえてくる。戯曲は〈読み物〉ではない。演劇を上演するための道具だ、アイテムに過ぎない。
たぶん多くの戯作者兼演出家はそんなふうに思っている。直接口に出さないにしても。台本を見ればよくわかる。それが演劇をつくるために書かれているのだということが。
僕はそれを悪いと言っているわけでもないし、批判したいわけでもない。ただ、僕が貫こうとしている信念みたいなものとはだいぶ違うな、と思っているだけ。ただそれだけ。で、僕がそのことをわざわざこうやって書き留めているのは、自分と他者の違いを客観視しようとしているだけ。
4. 演劇のために書くんじゃなくて、人間のために書く
僕は演劇をつくるために台本を書かない。そんなことを以前にもnoteに書いて残している。
演劇のために文章を書くんじゃなくて、人間のために文章を書けたらいい。
「人間のために文章を書く」っていうのは表現が抽象的過ぎるけれど、つまりは人間にしか書けないものを人間の手で書く、ということだろう。だから、一時期の僕は詩を書くことに没頭した。詩はAIには書くことができないと踏んでいたからである。
詩作を通じて、小説を書くようになった。そういうプロセスを経て、戯曲という形式は僕にとって無用のものになった。
僕は、劇作家ではなくて作家でありたいのだろう。
5. わからない」ものを「わかる」ようにして発表しようと努力している
書いている時点から、うすうす詩がどのようにして演劇になっていくのだろう? と考えていた。けれど、見て見ぬふりをしていた。だって、それを心配するのは作家としての僕の仕事ではないから。
(中略)
書きたいように書いたものを演劇にしていくのは、演出家としての僕の仕事だ。
この基本的方針は現在も変わっていない。だけれど、いくらか柔軟的になった。書いている時点でも、演劇になっていく様子をたまに思い浮かべるようになったし、頭のなかに浮かんでいる演劇的イメージをもとにして台本を書くようにもなった。それが小説のかたちをしているというだけだ。僕の小説の個性的な点をひとつ答えるとしたら、たぶんそれだと思う。
方針が柔軟的になったのは、最近は「わからない」ものをできる限り「わかる」ようにして発表しようとしているからだと思う。
思えば、僕の演劇人生とは、よくわからないけれどすごいものをつくることに捧げる、そんな数年間だったと思う。
(中略)
で、僕は今、「わかる」ものをつくろうとしている。「わからない」ものをつくりたいという欲求はいまだにある。昔は「わからない」ものを「わからない」まま発表していた。今、僕が努力しているのは、「わからない」ものをできる限り「わかる」ようにして発表するということ。
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