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あらゆる芸術の鑑賞方法(それを踏まえたうえでの創作の方法)



能動的/受動的な鑑賞


音楽を聴くというのはひじょうに集中力を要する行為です。

私たちはつい音楽を「ながら」で聴いてしまいがちですが、そのような聴きかたでは音楽における表面的なものしか感受することができません。

ちなみに、私は楽譜がよめるわけでもないし、楽器をひいたり、唄だって別段じょうずというわけではありません。

カラオケはあんまり得意じゃなくて、できることなら避けて通りたい道だと思っていますが、たまに飲み会のあとで行くカラオケは楽しかったりすることもあります。



唄というのは偉大です。楽器はとくべつに訓練をしないと、一般的な意味でじょうずにひくことができませんが、唄は、習っていなくても誰でもある程度唄えます。

しかも、唄うために必要な道具っていうのはなくて、この身体とこの声帯さえあれば、誰だって唄って音楽を奏でられてしまうのですから面白い。

当たり前といえば当たり前の話ですが。

けれども当たり前なことこそ掘り下げてみると自分なりに意外な発見ができるというものです。



音楽だけに限ったことではありませんが、何かを鑑賞するときには能動的な能動的な鑑賞とか受動的な鑑賞とか言われることがありますが、その定義はあいまいです。

受動的に鑑賞するというのは、その鑑賞対象を娯楽として扱うことです。

難しいことは考えず、おもしろければ万事OKということに、この場合なります。

受動的な鑑賞は能動的な鑑賞に比して何ら劣るわけではありません。

私も、今日はなんだか体調が優れないというときには受動的鑑賞を欲求することがまれにあります。

そして、そのようなときには表面的な感受のみでも十分楽しめるような娯楽作品を選択します。

しかし、その娯楽作品が面白すぎるといつの間にか能動的な鑑賞へと切り替わっていることがあります。

この作品はどうしてこんなに観ていて飽きないのだろう?

……作品全体のテンポが良いから。

では、作品におけるテンポとは何か?

……緩急である。それは音楽におけるリズムや間(休符)のことであり、音の強弱の積み重なりのこと。

ストラヴィンスキーなんかを聴いているとハッとする瞬間があるわけです。

次のフレーズは前のフレーズの繰り返し、ないしはその発展形になると思いきや、いきなり断絶して別のフレーズがとびこんできた、かと思いきや、前のフレーズに戻ったりするわけです。

ストラヴィンスキーの音楽は否が応でも聴衆を能動的にします。



このことから、われわれは重要なポイントをひとつ把握することができたといえます。

人間は予想を裏切られたとき、受動的鑑賞から能動的鑑賞へと切り替わりやすい。



ひとつの作品中で観客/聴衆の鑑賞を創作者側が意識的に切り替えるようにしてあげると、観客/聴衆の集中力は持続しやすくなります。

短い作品であればそこまで気に掛ける必要もないのかもわかりませんが、ある程度尺のある作品をつくろうとするなら創作者はこのことを絶対に心に留めておくべきです。

また、どの程度の尺を長い/短いとするかは個人の感覚にむろん委ねられるものですが、時代の感覚としては年々せっかちになっていっているとは思います。

(2024/08/16)



読書することは夢をみること


『プラットフォーム』。2周目の読書。僕は過去に読んだ本をあまり読み返さない。

読み返したいなとは思うんだけど。実際読み返すことはまれ。

とは言っても最近は2冊立て続けに再読している。『プラットフォーム』と宮本輝『錦繍』。『プラットフォーム』の再読はタイ旅行が契機になっている。宮本輝『錦繍』は草津旅行が契機になっている(『錦繍』の冒頭で描かれるのは蔵王。僕は蔵王旅行をするつもりだった。しかし、急遽行き先は草津に変更になった)。

小説のなかで描かれている場所。読者がそこに訪れたことがない場合、地名はただの記号になる。読者は、筆者の描写だけを頼りに、行ったこともない街の風景を思い浮かべる。そう考えると、小説を読むという行為はひじょうに奥深い。脳内でどのような処理がおこなわれているのだろう。どうして私たちは行ったことも見たこともない場所をイメージすることができるのだろう。


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今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。