ぽっぺのひとりごと(47)またの名をシュガーロード
「ぽっぺのひとりごと(39)猫と桜と松並木」で、長崎街道の一部である
「曲里の松並木」に触れましたが、今回は長崎街道そのものをご紹介しましょう。
江戸時代の街道としては東海道・中山道・奥州街道・日光街道・甲州街道の「五街道」が知られています。
長崎街道は貿易都市長崎と北部九州の各地を結び、上方・江戸へと通じた九州最大の街道で、寛永10年代(1633年前後)から整備されました。
長崎(地図の左下)から北九州・門司の大里(右上)まで約58里(約230km)には25の宿場町があり、平均7泊8日の行程でした。
国許と江戸を往復する参勤交代の大名行列は、一万石の小大名でも百人くらいの人数だったそうです。薩摩の島津家では寛永12年(1635)の行列は1240名だったと記録されています。千人を超える人々が「下に~、下に~」と歩いて江戸まで上って行ったとは驚きますね。宿場町ではごった返していたことでしょう。
「曲里の松並木」は「筑前六宿」の玄関口でした。黒崎宿は大変な賑わいだったそうです。約310mの松並木はきちんと整備されていて、今も当時の面影をとどめています。
赤茶っぽい色をした松葉の散り敷く道は足に心地好く、小鳥の声を聞きながら歩くのは最高の気分。とりわけ夏には松風が渡り、ひととき猛暑を忘れます。
この道を歴史に名を残した人々が歩いたのだと思うと胸が躍ります。
1823年にオランダ商館の医師として来日したシーボルト(1796~1866)は、文政9年(1826)に長崎から江戸へ。
吉田松陰(1830~1859)は嘉永3年(1850)に蘭学を学ぶために長州から長崎へ。
日本初の新婚旅行をした坂本龍馬(1836~1867)とおりょうさんも、ここを通って鹿児島へ。
日本地図を作製した伊能忠敬(1745~1818)も、勿論歩きましたよ。
特筆すべきは象です。享保14年(1729)、ヴェトナムから運ばれて来た象とその一行14名は12泊13日かけて長崎街道を通過し、江戸へと向かいました。当時の人々の仰天ぶりや如何に。スマホで撮影できませんから、しっかりと目に焼き付けたことでしょう。
長崎街道は後に「シュガーロード」と呼ばれるようになりました。
最初はポルトガル、次にオランダとの貿易が盛んになり、大量の砂糖が輸入され、長崎にもたらされたからです。砂糖をたっぷり使った南蛮菓子が和の文化と混ざり合い、全国に知られる銘菓がたくさん生まれました。
砂糖だけではありません。江戸中期以降、オランダ語によって西洋の医学・天文学・物理学・化学などの学術や文化が長崎に集結しました。
200年余りも続いた鎖国の体制の中で、唯一、世界に開かれた「窓」が長崎であり、長崎街道は西洋の文化や技術などを伝える「文明の道」だったのです。
19世紀の人々に思いを馳せながら歩いていると、カラスに出会いました。
参考資料:『長崎街道ー世界とつながった道-』九州歴史資料館
『長崎街道を歩く』北九州市八幡西区役所企画課
『筑前六宿案内本』筑前六宿400年記念事業実行委員会