流行り病と武蔵村山
武蔵村山市
武蔵村山市は東京都多摩地区のうち、北多摩地区にあります。
指田日記 (市指定文化財)
江戸時代、現在の武蔵村山市域には3つの村がありました。
そのうちの中藤村に住んでいた指田藤詮が天保5年(1834)から明治4年(1871)まで書きつづった日記が『指田日記』です。
藤詮は農家出身ですが、原山神明宮の神職を務め、占いや祈祷を行う陰陽師としても活躍していました。
陰陽師って、農村に普通にいたんですね。
日記には、陰陽道や神職としての仕事だけでなく、村で起きた事件・年中行事・冠婚葬祭・自然災害などにも言及しています。
どうやら陰陽師って、心身ともに病の相談を受けるカウンセラーのようなものだったらしい。
さて。
安政3年にこのような記述があります。
「邪気送り」は聞いたことがあります。
ウィルス発見以前は、流行り病(感染症)は神様の仕業だと思われていたので、村から追い出す儀式をするのですね。
「予」は日記の筆者です。
「常宝院」は修験者です(修験者については後述)
「異形の出立(いでたち)」とは何でしょう?
ハロウィンのように帽子やマントを被ったり、メイクをしたり、血糊をつけたり、したのでしょうか。
なまはげのように怖い格好をしていたのでしょうか。
『流行り病と武蔵村山』という武蔵村山市歴史民俗資料館が発行している冊子には「「異形の出立」については不明」と書かれており、専門家がわからないのですから、私が調べても無駄でしょう。
とは思いますが。
知りたくてうずうず。
もし情報をお持ちの方がいらしたら、ぜひ教えて下さい。
「丸山台」は、現在の桜街道沿いにあったとされ、東大和市と武蔵村山市の境かと思われます。
「疾病送り」「邪気送り」は、村境まで行って邪気を追い出す儀式ですので、武蔵村山市域から東大和市域に送った、ということ?
あのー、迷惑じゃない?
送られた東大和市域側としては。
自分の家のゴミを隣の庭に捨てるようなものじゃない?
倫理観とかそういうのは…。
その1ヶ月後に、次のような記述があります。
意訳しますと、先月「邪気送り」をしたとき、すれ違った原山の弥次郎さんが、すれちがいざまに悪寒がしたかと思ったら、あっという間に発熱し、夜には下痢になりました。近所のこども2人にもうつってしまいました。
それでまたわたしたちが頼まれて、「邪気送り」をしましたよ。
ということですね。
すれちがっただけで悪寒がした、と。
なんて強力な疫病神なんでしょう。
ところで「予」は筆者のことであり、陰陽師ですから、医療に携わるのはわかるのですが、修験者もそういう役割を果たしていたのでしょか。
山で厳しい修行をすると、超自然な力、つまり魔力や仙術を得たらしいので、そういう術を使ったのでしょうか。
調べてみると、必ずしも術を使っていたわけではないようです。
中世から、修験者による、造薬・売薬活動が行われており、民間薬の普及に一役買ったとか。
有名なところでは、大和の「陀羅尼助」。
今から1300年前、役小角が配合し、山伏たちによって効力が全国に知れ渡り、庶民の常備薬になったそうです。
という川柳があるそうで、「陀羅尼助」は苦い薬だったのですね。
他に、伊勢の「萬金丹」、越中富山の「反魂丹」、越後の「毒消し」、目薬の元祖を言われる「真島流」など、修験者が売り歩いていたそうです。
修験者や宗教者は、医薬品とともに、医療書や医薬書を携え、術的な療法もありましたが、正統的医学書だったそうです。
一方で、贋薬が多く出回っていたのも事実で、幕府は江戸、駿府、京、大坂、堺の5都市に「和薬改会所(わやくあらためかいしょ)」を設立しました。
検査に合格しないと売ってはいけない体制は、ここから始まったのでしょうか。
カバー写真:『流行り病と武蔵村山』
<参考資料>
『流行り病と武蔵村山』 武蔵村山市立歴史民俗資料館 令和4年(2022)
『武蔵村山市文化財資料集26 「注釈 指田日記」下巻』
武蔵村山教育委員会 平成18年(2006)
畑中章宏『医療民学序説』 春秋社 2021年
だらにすけの吉野勝造webサイト
https://darasuke.com/?yclid=YSS.EAIaIQobChMI_IfJze29hAMVt9pMAh2IqwCCEAAYASAAEgJId_D_BwE
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