今日、二十歳になる娘たち
今日は私的なお話をさせてください。
いつも私的と言えば私的ですけど。
今日、ふたごの娘が二十歳になります。
よくここまで育った。
というお話をさせてください。
ふたりは1500グラム足らずで生まれました。
健康に生まれた赤ちゃんのおおよそ半分。
お砂糖の袋1.5個ぶんです。
帝王切開だった私は、車椅子に乗って、小児科(新生児室ではなく)へ行きました。
娘たちは、保育器の中で、枝のように細い手足を折って、うずくまっていました。
病院用SSSサイズのおむつが、ぶかぶか。
鼻から管をつないでいるのは、母乳を飲む吸引力がないので、栄養剤を鼻から入れるためです。
はじめて飲んだミルクは鼻から7ccで、それでも担当医は「がんばった」と褒めてくれました。
足の裏のコードは生体情報モニターにつながっていて、生死を監視しています。
こんなに小さくて生きていけるのか。
誰もがそう思ったでしょうが、誰もそうは言いませんでした。
おそらく母親はみんなそうだと思いますが、子どもが健康に生まれなかったとき、自分のせいだと思うでしょう。
私は小柄なので、ふたごを妊娠するのに適していませんでした。
子宮がみぞおちまできて、胃袋が子宮の下になって圧迫され、嘔吐を何ヶ月も繰り返していたのです。食べないほうが楽。
夜中に息切れで目を覚ますので、登山に使う酸素ボンベを何本も持参して、入院していました。
「1つの心臓でふたりの子に血液を送るんだもん、大変よね」と看護師さんいわく。
そんな入院生活だったので、帝王切開で出産日が決まったときは、これで楽になるーとホッとしました。
しかし思いがけず、手術予定日の2週間前に破水し、緊急手術となったのです。
上海にいる夫はもちろん、都内にいる両親も間に合わない。
手術に必要な書類は、全部自分で書きました。
その中には、麻酔中に死んでも文句は言わない、というような文面もありました。
保育器の中にいる、ふたりの赤ちゃんが、天地もひっくり返るほど可愛いと思うと気持ちと、しめつける罪悪感。
小児科に入院した娘たちに別れを告げ、夫は赴任先の上海へ戻り、私は産院を退院して、一人暮らし。
搾乳した母乳を冷凍して、小児科に日参すること、5週間。
娘たちは2400グラムになり、貧血という病名だけを残して、退院しました。
「ふたごのお母さんは一度は気が狂うけど、がんばって」と、鉄剤(哺乳瓶に入れて飲む)と一緒に見送られました。
それから今で言うワンオペ育児が始まりました。
でもぜーんぜんへっちゃら。
私は育児が楽しくて楽しくてしょうがなかった。
ひとりでも可愛い赤ちゃんが、ふたりもいる、2倍可愛いのは当たり前。
新生児の授乳は1日およそ8回。
ふたりなら16回。
飲み終わって、抱っこして、背中をポンポンすると、毎回吐く。
胃の入口(噴門)の筋肉が弱いらしい。
授乳、洗濯、おむつ、授乳、洗濯、おむつ。
洗濯機は回りっぱなし。
右手と左手に抱っこした写真を見た友だちから「popoの腕の筋肉がもりもり」と言われました。
娘たちは、人より遅いながらも、着実に成長していき、そのぶん私は、健康診断で「栄養失調」と言われるほど凋んでいました。
ごはんを作って食べる時間なんてなかったし、夫はいない、赤ん坊はミルクしか飲まない、わざわざ自分のためにつくるのは面倒。
でも気持ちはずっとハッピー。
生きていてくれればそれで十分。
おそらくこの頃に、寝なくても食べなくても平気な身体になったのでしょう(note写仏部七不思議の1つが解決)
友だちから届く年賀状に、昨年はどこそこへ旅行へ行った、今年はどこそこへ行きたい、と書いてあるのを見ながら、私は一人でトイレに行きたいと思っていました。
1歳検診で、歩いてもいい頃なのに、まだハイハイもしないので、療育センターへ行くように言われ、紹介状をもらいました。
療育センターでは、発達障害があるかもしれない、足の麻痺が左右ともにあるかもしれない、今のところはわからないと言われました。
ともあれ療育センターへ通うことになりました。
別の病院では、喘息の診断を受けて、呼吸器をレンタルしました。
その後もアトピー、鼻炎、中耳炎、結膜炎、アレルギーのおまつり。
それでも気持ちはハッピー。
生きていてくれればそれで十分。
3才の幼稚園入園の面接では、療育センターに通っているということで、別室へ呼ばれ、
「お名前は?」と質問され、「しゃんしゃい(3歳)」と答えていました。
それでも入園させてくれた園長先生に感謝。
それから3年間、ふたりは一言も喋らないまま卒園。
でも家では、泣くわ、笑うわ、走り回るわ、壊しまくるわ。
ひとりでもうるさい幼児が、ふたりいる、2倍うるさいのは当たり前。
小学校に入学するとき、療育センターの言語療法士さんに、支援学級に入ることも視野にいれるよう言われましたが、学区内の普通クラスに入れました。
私は、娘たちがご迷惑をかけているのでは?と申し訳なく、幼稚園から小学校まで、委員やらボランティアやら交通安全の旗振りやら、できることは全部やりました。
そのせいかあらぬか、先生には恵まれました。
小学校の校長先生は、休み時間に教室へ来て、二人の違いを研究するからと、写真を撮ってくれたそうです。
親子面談では、「◯◯ちゃんはおっとりしているけど、お母さんもおっとりしているね。ちょっと心配していたけど、お母さんがそれならいいや」と言われました。
私も小学生の頃「popoちゃんはみんなが終わった頃に始める」と言われていたのです。
小学校高学年あたりから、さほど遅れが目立たなくなり、1ヶ月に1、2度は風邪を引いて休んでいたのが、皆勤賞までになりました。
しかしこの頃、夫が鬱になり、上海から戻ってきて、休職しました。
我が家の収入が途絶えて、家で絵画教室を開くことにしたのです。
絵画教室だけでは稼げなかったので、ヤフーショッピングでイラストグッズを販売したり、明け方にポスティングをしたりしました。
そのかたわら、夫に毎日ミルクセーキを作っていたら、夫は体重が増えてしまいました。
それでも娘たちは元気に育っていきました。
勉強はぜんぜんしなかったけれど、勉強しろと、ほとんど言ったことがありません。
ピアノもぜんぜん上達しなかったけれど、練習しろと、ほとんど言ったことがありません。
生きるかどうかわからなかったふたりが生きているので、それでよかったんです。
一方で私は、娘たちが成人するまでは、絶対に死んじゃいけないと思っていました。
花嫁姿が見たいとか、孫を抱きたいとか、そういう期待ではなく、成人させるのが親の義務だと思っていたからです。
成人するまでは命がけで生きよう、と思っていました。
これまで、いつ死んでもまあいいか、と思ってふらふら生きてきたので、絶対死んじゃいけないと思うことは、なかなかのプレッシャーでした。
たぶん死なない、と思って当たり前のように生きていますが、絶対死なない、と思ったら、青信号も点滅を始めたら渡らない心意気。
ところが娘たちが高校2年生のとき、私は死ぬ可能性がある病気になりました。
病名を伏せたまま、入院し、手術しました。
再発するなら3年後に!
そうすれば娘たちは20歳です。
今はふたり、同じ大学に通い、看護師になるための勉強をしています。
バイトではじめてお給料をもらったとき、私に何かあっても、この子たちは自分で稼いで生きていける、と心底安心しました。
「洋服買ってあげようか?」と言うと「もういいよ、まーたん(私のこと)は自分のことにお金を使って」と言ってくれます。
夫は復職しましたが、肩書が外れ、お給料は減ったものの、子どもたちを溺愛しています。
私は肩の荷をおろしたので、もういつ死んでもいい。
よかった、やっとここまで来た。
そんな気持ちの二十歳。
3000字を超えてしまいました。
最後までおつきあい頂き、ありがとうございました。
コニシ木の子さん、いつもありがとうございます。
いつきさん、いつもありがとうございます。