戦災遺跡『旧日立航空機株式会社変電所』(2)
戦争遺跡『旧日立航空機株式会社変電所』(1)の記事はこちら。
私が文化財ボランティアをしている戦災遺跡『旧日立航空機株式会社変電所』では、毎年8月半ば、いわゆる終戦記念に『市民平和のつどい』を開催しています。
『旧日立航空機株式会社変電所』は、第二次世界大戦のときに、米軍による空撃を受け、穴ぼこだらけになった戦災遺跡です。
飛行機工場は壊滅しましたが、
工場に送電していた「変電所」だけは、コンクリート造りだったために、その形をとどめました。
そんな話をちょっとしたいのですが。
その前に、東大和市ってどんな市?ということをお話したいと思います。
90%以上の方はご興味がないでしょう? ごめんなさいね。
東大和市は東京都にあるにもかかわらず、東京に住んでいる人が「そんな市あったっけ?」と思うような市です。
「popoさん、どこに住んでいるの?」
「東大和市です」
「東大和市? 神奈川県?」
「いえ、東京都です」
「そうなんだ、まあ、小笠原諸島も東京都だもんね」
「ですね」
「あれでしょ? 道に野菜とか無人で売ってるんでしょ?」
「はい、売ってます」
東大和市は、ここら一帯が武蔵国と呼ばれていた近代まで、6つの農村でした。
いずれもとりわけ貧しかった。
水田はなく、あるのは畑ばかり。
江戸時代は幕府の直轄地で、武蔵野一帯は大江戸の食料供給地の役割を担っていました。
畑の等級は「下の下」
年貢をおさめようにも「おたくの村の作物はまずいからいらない」と受取拒否され、お金で収めるように言われていました。
飢餓人が続出した天明8年(1788)には、「たにしを蓄えよ」と幕府から通達が出ています。
干して保存し、湯をかけて食べろ、と。
涙なしでは語れない。
武蔵国から東京都になってからも、「東京のチベット」と呼ばれていたそうです。
徴兵令
明治6年1月、徴兵令が公布されます。
男子は満20歳になると徴兵検査をうけ、「甲・乙・丙・丁・戊」の5段階にわけられます。
甲乙の合格者の中から抽選で3年間の「常備軍」、さらに4年間の「後備兵力」に服することになりました。
「後備兵力」というのは、平和なときはいいけど、戦争になったら招集されるので、心の準備をしておいてね、という意味です。
徴兵制は「国民皆兵」が原則ですが、
◯官庁勤務
◯公立学校の生徒
◯医療従事者
◯戸主
◯270円を収めた人
は免除されます。
こんな不公平がまかり通ったのかしら?
当然ながら、各地で抵抗があったようです。
形だけ養子になって戸主になり、兵役逃れをする人たちが多かったとか。
東大和市では、かつて6つあった農村のうち、ある1つの村※の記録によると、明治7年において満20歳になった該当者27名のうち、養子8名、戸主4名、身長の低い人10名で、兵役に服した人はたった5名でした。
身長の低い人が10名?
そんなに?
栄養事情が悪かったのでしょうか。
東大和市に限ったことではなく、兵役逃れは全国的に横行しており、日清戦争では人口の5%程度しか徴集されなかったそうです。
根こそぎ動員が行なわれたのは、第二次世界大戦になってからです。
出征
日清戦争(明治27年)、日露戦争(明治37年)、第一次世界大戦(大正3〜7年)と、村からも参戦しました。
日清戦争には3名出征し、3名とも亡くなりましたが、原因は3名とも病気でした。すなわち戦病死です。
戦病死者と戦死者では、村から贈られる香典の額に差があり、戦病死のほうが安いとは、やりきれない。
日露戦争は世界的に見ても大規模戦争で、村からも多くの人が出征しています。
そのうちほとんどは、乃木希典将軍の指揮した第3軍に属し、旅順の攻撃に参加しました。あの苦闘に参戦したのですね。
戦死者は6名で、これは他地域に比べると少ない方です。
埼玉県の資料と比較してみますと、戦死者は3桁にのぼっています。
第一次世界大戦で、日本はイギリスの同盟国であることを理由に参戦。
村からは4名参加していますが、戦死者はいませんでした。
戦死者はいずれも大体的に村葬が行われました。
戦死は「誉れ」でしたので、遺族は悲しんではいけないのです。
村葬は、地域に戦時ムードを生み出すためにも、大きな意味がありました。
ところで、村葬の費用はどうやって捻出したのでしょう。
まだ調べている段階ですが、全国的に「徴兵慰労義会」なるものがあり、村人から徴収されていました。
主に、稼ぎ手が家を留守にしている間の家族の生活費支援に充てられていたようです。
軍隊生活がもたらしたもの
徴兵された人のほとんどは貧しい農家の次男、三男でした。
はんてん、ももひき、草鞋といった衣生活に、麦飯、漬物、一汁の食生活を送っていました。
その青年が軍隊に入り、洗顔し、歯を磨き、医療の知識を得、軍服・靴を着用し、団体生活における規則正しい生活を送ることで、学んだことも多かったのです。
特に軍隊における食事は、農村青年にとってどれほどゴージャズだったでしょう。
すき焼き、カレーライス、魚の煮付けは、これまで食べたことがありませんでした。
また「酒保(軍隊の売店)」で味わった、ビール、ラムネ、サイダー、アンパンなど、「もう元の生活には戻れない」と思うほどの美味だったかもしれません。
除隊した青年たちは、村では文化人として、人々から尊敬されたそうです。
<付記>
※ある1つの村
東大和市が成立する前は、6つの農村でした。
その中の「蔵敷村」では、内野杢左衛門という名主が『里正日誌』という記録を3代にわたって残しており、記録が鮮明です。
そのため、ここでは「蔵敷村」についてお話しています。
変電所の話を1つもしないうちに、大幅に2000字を超えてしまいました。
『旧日立航空機株式会社変電所』(3)へ続けます(と思う)。
長い文章をお読み頂きありがとうございました。
文中に誤りがございましたら、ご指摘・ご教示ください。
よろしくお願いします。
コニシ木の子さん、いつもありがとうございます。
いつきさん、いつもありがとうございます。
<参考資料>
『徴兵制と近代日本』 加藤陽子著 吉川弘文館 1996年
『東大和市史資料編(6) 中世〜近世からの伝言』東大和市史編さん委員会 1997年
『東大和市史資料編(1) 軍事工場と基地と人びと』東大和市史編さん委員会 1995年
東大和市公式Webサイト「東大和市どっとコム」
https://higashiyamato.net/manabu/
国立公文書館公式Webサイトhttps://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m06_1873_01.html
『新編埼玉県史資料編 19』埼玉県編集・発行 1983年
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