戦災遺跡『旧日立航空機株式会社変電所』(3)
前回までのお話はこちらをお読みください。
こんな貧しい村に、巨大な軍事工場ができることになりました。
どれほど驚いたことでしょう。
日清戦争と太平洋戦争の間の昭和13年。
飛行機のエンジンを生産する、「東京瓦斯電気 立川工場」が建設されることになりました。
戦前日本の航空機メーカーのトップ3は、中島・三菱・川崎。
この大手三社に続く四番手が「立川飛行機」でした。
立川飛行場の前身は、「石川島飛行機」。かつての「石川島播磨重工業」現在の「IHI」です。
それまで、村には、5人以上の従業員をもつ工場はありませんでした。
そこへ約1000人の従業員が働くことになったのです。
翌年には、「東京瓦斯電気立川工場」は「日立航空機工場」と合併して拡大し、最盛期には従業員が13000人を超えました。
会計課だけでも200名いて、それでも給料日に給料を届けるのに1日かかったそうです。
従業員の多くは地方から募集した人たちで、寮暮らしを必要としました。
そこで社宅が作られ、村の中に街ができあがったのです。
その町は「南街」と呼ばれました。
もともと人が住んでいた「本村」の南に位置したからです。
村の中に街ができた
「南街」は、日立航空機工場で働く人たちの社宅で、ナチス・ドイツの「ジードルング方式」を採用したものです。
ジードルングとは?
第一次世界大戦のあと、敗戦国ドイツは、多額の賠償金を背負い、困窮状態でした。
従来ものづくりを得意としていた国なので、製造業に力を入れて、支払いに当てていたのですが、工場の労働環境は劣悪で、工員たちは息も絶え絶え。
工員たちの健康と、経済危機を補うために、工場のそばに集合住宅を作って通勤を楽にし、インフラを整え、土地や家畜も与えて自給自足できるようにしよう。
といった都市計画のことをジードルングと呼びました。
ドイツの首都、ベルリンにあるジードルング住宅は世界遺産になっています。
もともとは、イギリスのエベネザー・ハワードが『明日の田園都市』(鹿島出版会 2016年)の中で、労働者のために模範的な住宅地をつくろうと、田園都市論を発案したのでした。
イギリスは産業革命たけなわの頃。
10歳以下の子どもも午前3時から夜10時まで働かせられ、子どもの平均身長がフランスと比べてガクッと下がり、リバプールでの平均寿命は15歳だったそうです。
その頃の様子を書いたのが、エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』(岩波書店 1990年)。
そんなわけで。
ジードリングの街づくりがなされた「南街」。
残念ながら、そのときの写真は公開されていませんが、「計画図」があります。
昭和25年完成予定?
いつまで戦争するつもりだったのでしょうね。
病院、商店街、テニスコート、野球場、銭湯、公民館、消防団、迎賓館、映画館などがありました。
今でも他のブロックより細かく区画整理されているのが、おわかり頂けると思います。
これは、社宅が四軒長屋だった名残です。
4軒で1つの長屋になっていて、それを囲むように道があったのですね。
戦後は「四軒長屋」を切断して、4軒の家にバラしました。
屋根をぎこぎこ切断して、壁を新しく造って、分けたのです(すごいことするなー)。
現在までにほとんどの家は建て替えられ、ぎこぎこ屋根は残っていませんが、区画だけは当時のまま。
売り出し中の新築です(個人宅は載せられないので)。
家と家の間は50センチくらいしかなく、人が通るのは困難です。
横幅が部屋1つ分しかないでしょう?
うなぎの寝床ですね(3階まであるので、うちより広いけど)。
また、変電所に向かって、道路が放射線になっています。
これはヨーロッパによくある街づくりです。
その放射線のおかげで、現在も三角形の土地ができています。
村上春樹の作品の中に『チーズケーキのような形をした僕の貧乏』という短編がありますが、こんな形だったのかな。
当時の人々は、戦争に勝つと信じて、希望を抱いて、ここから新しい生活をスタートしたのですね。
村人VS都会人
さて「南街」は、もともとあった農村よりも、南にあったがために「みなみまち」と呼ばれました。
つまり村から目線。
村では村のことを「本村(ほんそん)」と呼んでいました。
こちらが本当の村だ、という意味が込められていたのかもしれません。
当初、南街に住む人は、工場ができたときに、都心部から引っ越してきた人たちでした。
ここに
村人VS都会人
という関係ができあがります。
社宅では、蛇口をひねれば水が出ますが、村では井戸、日照りが続けば渇水します。
社宅の人たちは、洋服もおしゃれだし(後に、もんぺになりますが)、時にはお化粧をします。村では野良着。
その違いは、子どもたちが学校に持っていくお弁当にも表れました。
村人に比べて都会人のお弁当は、ちょっと高級だったり、ちょっと手が込んでいたりしたのでしょうね。
ところが終戦を迎えると、逆転します。
村人は農業・養蚕を生業とし、自給自足なので、家に食料があります。
しかし工員だった人たちは失業してしまったので、暮らしが困窮しました。
お弁当を持っていけない子どもたちもいたようです。
やむなく、南街の人たちは、本村に買い出しに出かけます。
着物や装飾品を持って行く、物々交換です。
戦時中、工員たちはお給料がよかったので、赤ちょうちんで機嫌よく呑んでいました。
日立飛行機会社に勤めていたことから「日立だんな」と呼ばれ、「やあ!日立だんな」「さあさあ、日立だんなどうぞこちらへ」と歓迎されて、モテモテだったそうです。
ところが戦後は物々交換に来るようになり、「日立乞食」と呼ばれるようになったとかで、ひどい言われようですね。
最後までお読み頂きありがとうございました。
文中に誤りがございましたら、ご指摘・ご教示ください。
よろしくお願いします。
<カバー写真>
2024年8月17日(土)筆者撮影。
「平和市民のつどい」が開催されました。
子どもたちが紙に絵を描いて、キャンドル「平和」を作りました。
私は変電所内でボランティア活動をしていました。
<参考資料>
『東大和市史資料編(1) 軍事工場と基地と人びと』東大和市史編さん委員会 1995年
東大和市公式Webサイト「どっとネット」
https://higashiyamato.net/higashiyamatonorekishi/4306
世界遺産データベース公式webサイト