瑞穂町郷土資料館 けやき館(1)
瑞穂町の位置
瑞穂町の南部(白い線があるところ)は横田基地の一部になっており、飛行機の航路確保のため、高い建物がなく、のどかな町並みです。
昭和15年に4つの村が合併して、瑞穂町が誕生し、令和2年に町制施行80周年を迎えました。
火災による死亡者ゼロという記録を45年以上続けています。
瑞穂町郷土資料館へ行ってきました。
職員さんに尋ねたところ、写真撮影可です。
常設展『瑞穂の自然と歴史』
<瑞穂町の自然>
狭山丘陵雑木林のジオラマ
初夏から夏にかけての様子です。
拡大します。
地形シアター
人類が誕生する前、このあたりは海でした。
昭島でアキシマクジラの骨が見つかっていることも、その証左の1つ。
クジラやサメが遊泳していた海から、プレートが現れ、狭山丘陵ができ、火山の噴火によって関東ローム層ができ…、そんな様子が、マッピングシアターによって展示されています。
<瑞穂町の歴史>
縄文時代
狭山遺跡で竪穴住居が発見され、縄文時代に中期集落を築いていたことがわかっています。
狭山丘陵中腹の六道山遺跡では、石鏃を初めとする多数の石器と、狩猟用の落とし穴が発見されています。
狩り場に仕掛けられた落とし穴。この縦長の穴は、
こうかな?(想像図)
丸い穴は、
こうかな?(想像図)
地面を掘り窪めた竪穴式住居は、半地下のため、夏は涼しく、冬は暖かい構造でした。
ほぼ中央に炉があり、煮炊きもしていたようです。
家のサイズからして4〜5人が暮らしていたと考えられています。
中世
平安末期に律令制度が進み、地方では中央から下向した貴族などが荘園を根拠に、武士として力を持ち始めました。
源頼朝の家来は「武蔵相模のともがら」と言われるように、多くが関東武士です。
武蔵国では武蔵七党※と呼ばれる武士団が台頭し、このあたりでは村山党が活躍しました。武蔵野で紛争を繰り返していた武士たちですが、頼朝の下につくことで、「いざ鎌倉」と忠勤する同志になりました。
※武蔵七党
現在名前が伝わっている党は「横山党」「猪俣党」「児玉党」「丹党」「野与党」「村山党」「西党」「私市党」「秩父党」「綴党」の10党で、7つに整理されていません。
また他にも党があったと考えられています。
箱根ヶ崎築では板碑※が多く出土しており、中世集落があったと考えられています。
近世
戦乱が落ち着き、平和になった江戸時代。
瑞穂町には、天領と私領が混在しており、かつ尾張家の御鷹場に指定されていました。
そのため、領主である旗本や代官に年貢を収めるだけでなく、鷹場役人の接待費や、鷹場とその周囲の整備にかかる費用を負担するなど、二重の支配を受けていました。
<尾張家の御鷹場>
瑞穂町を含む武蔵野の村々は、寛永10年(1633)の拝領とともに、尾張家の御鷹場になりました。
御鷹場とは、将軍家や御三家が鷹狩を行う場所です。
よく飼いならした鷹を空中に放って、野鳥を捕えさせる狩猟法で、世界各地で行われてきたスポーツ兼娯楽です。日本では仁徳天皇が行ったことが『日本書紀』に見ることができ、権力の象徴でもありました。
瑞穂町は主要な狩場ではありませんでしたが、鷹場村特有の厳しい法令は守らなくてはなりません。
たとえば
・鷹狩のために通行する道に木の枝が伸びていてはいけない。
・鷹狩のために通行する橋が壊れていたら修繕しなくてはいけない。
・野鳥を殺したり驚かしたりしていけない(鷹の獲物だから)
・焚き火をすること、大声を出すこと、案山子をたてること、水車をつくること、家を新改築すること、綱で地面を打つこと、手ばたきをすること、エトセトラ、をしてはいけない。
時期によっては、申請すれば許可されたようです。
農業中心の生活から商業の基盤ができ始めたのも、この頃です。
<箱根ヶ崎>
現在、瑞穂町には駅が1つしかありません。
JR八高線「箱根ヶ崎」は、かつて宿場として栄えたところでした。
石灰運搬のために整備された青梅街道※と、八王子市千人同心が日光の警備のために往来する日光街道とが交わる場所が箱根ヶ崎です。
当初は政治目的でしたが、のちには参詣や湯治のために人々が利用するようになり、旅籠屋が営業を始めました。
もっとも栄えた江戸後期には旅籠9軒、商家12軒が存在していたことがわかっています。
また羽村や砂川などの他村から、出店してくるケースもありました。正月前に破魔弓や羽子板、3月には雛人形というように、季節ごとの賑いも見られました。
※青梅街道
江戸城は長禄元年(1457)に太田道灌が築いたと言われていますが、今の姫路城や熊本城から想像するような立派なものではありませんでした。天正18年に徳川家康が江戸へ入ったとき、門の扉や玄関には船板の古材が再利用されていたそうです。
そのため江戸城は大改築することになりました。
城のシンボルともいうべき白壁の塗籠に用いる材料は、現在の青梅市で生産される焼石灰。それらを運搬するために青梅街道ができたのです。
歴史編はここまでです。
次回は民俗編です。
長らくお付き合い頂きどうもありがとうございました。
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カバー写真:大多摩「観光情報」webサイト
https://www.ohtama.or.jp/sightseeing/102.html
<参考資料>
『瑞穂町史』瑞穂町史編さん委員会 昭和49年