戦災遺跡『旧日立航空機株式会社変電所』(1)
私が文化財保存活動をしている文化財の1つについて紹介させてください。
でも悲しい、つらい話を含みますので、苦手な方はまた次回の記事にいらして頂けたら幸いです。
東大和市都立南公園の中に、古ぼけた鉄筋コンクリートの建物があります。
クレーターのように穴ぼこだらけ。
第二次世界大戦時、米軍空襲を受けてできた銃跡です。
「NO WAR」の横断幕は、ロシアがウクライナに侵攻したのをきっかけにできました。
それまではなかったのです。
戦争が「過去」ではないことを痛感します。
南公園は、平日でも賑わう公園です。
花と緑あふれる公園に、この戦争遺跡はミスマッチ。
でも、だからこそ「戦争」と「平和」を、対比できる立地と言えるかもしれません。
この建物の名前は『旧日立航空機㈱変電所』です。
飛行機のエンジンを作っている「立川工場」が隣接しており、66000ボルトの電気を3300ボルトに変電して供給する役目を果たしていました。
外から撃たれ、建物内部まで貫通しています。
銃痕の角度から、機銃掃射が、低高度、至近距離から行われていたことが推測されます。
「立川工場」は、エンジン「ハー13甲」を主に作っていました。
95式練習機に搭載するエンジンです。
昭和19年には従業員が13000人もいました。
「陸軍95式練習機」の模型。
別名「赤とんぼ」
練習機なので、ふたり乗りです。
前に練習生が、後ろに熟練したパイロットが乗りました。
空襲は3回ありました。
1回目は、昭和20年2月17日。グルマンF6Fヘルキャット戦闘機や、カーチスSB2Cなど50機編隊が爆撃を行い、7分間で78名の死者を出しました。
亡くなった方の半分以上が、防空壕の中で亡くなりました。
防空壕の入口が爆破されたため、土埃が鼻と口をふさぎ、窒息死してしまったのです。
防空壕の外に避難した人は助かった人もいたのに、なんのための防空壕でしょう。
このときの防空壕は、工場から20秒以内のところに作られていました。
空襲警報が鳴り、避難したあと、またすぐ仕事に戻れるように、20秒以内のところに防空壕を設置することが、内閣府から命じられていたのです。
人の安全よりも、工場の生産効率のほうが優先だったのですね。
工場に勤務していた戸田はな子氏は、当時の日記(郷土資料館展示)に、「お母さん、お姉さん、さようなら、もう死ぬかもしれません」と綴っていました。
2回目は、4月19日。P51ムスタング戦闘機らによる機銃掃射。死者6名。
このときはもう防空壕の中には逃げず、みんな外に逃げました。
死者6名は、畑の中で撃たれています。
すなわち米軍が工場ではなく逃げる人を狙ったことがわかります。
3回目は、4月24日。B29の101機編隊により1800発の爆弾が投下され、工場は壊滅状態。27名が亡くなりました。
これは米軍が空から撮影した写真です。
攻撃の成果を確認するために、爆撃した直後と、数分後と、2回撮影していたそうです。
3回にわたる攻撃で、学徒を含む合計111人が亡くなりました。
「平和について考える場所」として保存されている変電所が最もふさわしい役目を担うのは、毎年8月に行われる「平和市民のつどい」でしょうか。
キャンドルのあかりが照らす中で浮かび上がる変電所の姿は悲しく壮絶です。
変電所2階の窓から見た南公園です。
この平和な景観がずっと続くことを願って、保存活動をしています。
ここ2階のベランダは、ご覧の通り、手すりが爆破されてボロボロです。
もちろん耐久工事はしてありますが、危ないので、外へ出ないように立ち入り禁止ロープを張っています。
ある時、3歳くらいの男の子が、
「ねえねえ、ちょっと来て」と私の手を引いてここまで連れてきました。
「ここが壊れているから、直して」
えっ!
か、可愛い。
壊れたまま保存してあるって、意味不明だよね。
<参考資料>
東大和市史編さん委員会編『東大和市史 資料編1軍需工場と基地と人びと』、東大和市、1995年
東大和市立中央公民館編『語り継ごう戦争と平和』、東大和市立中央公民館、1996年
東大和市立中央公民館編『後世に伝えたいー私の戦争体験(続編)』、東大和市立中央公民館、1997年