月のかたちを物語るひと
もし、月が夜空に浮かぶただの球体だったら、この世にあるどれだけの物語が生まれていなかっただろう。
新月から満月へ。満ちた光がまた欠け始めて、次の新月へ。満ちては欠ける、その繰り返しに人は自らの状況や心情を重ね合わせてしまう。そして、ささやかな光に秘密や願いを囁いて託す。わたしがこれから語るsleepyheadもまさにそのひとりだ。
眠たがり屋。転じて、醒めない夢。 哲学>倫理 上質な闇と、逆説的希望。
2018年1月31日22時27分、皆既月食の夜。
赤い月の光に導かれるように、この言葉を掲げてsleepyheadは始まった。本来であれば「sleepyheadとは何者か」というアウトラインを語るべきだと思うけれど、わたしの言葉でそれを語り直すことによってきらめきが損なわれてしまうことをいまは避けたい。わたしがこれから語るのは、sleepyheadのクリエイションの根本となっている'ストーリーテリング'について。その美しさについてだ。
優れた小説が、読み手の心に異なる種を植え付けて色もかたちも香りも花を咲かせるように、sleepyheadの音楽たちはそれぞれの聴き手たちをちがう物語へと誘う。
ある人は、恋を知った浮気者、パレードの先頭を歩く笛吹きと例え、またある人は、水晶で出来た羽のように軽くて小さなナイフ、つややかな黒い木製のアンティークテーブルと例えた。
わたしの場合はいつもこうだ。
目を閉じて流れてくる言葉と音に耳を済ませると、眠りに落ちる瞬間の、あの恐ろしいような心地良いような、液体に背中から沈み込む感覚に落ちる。そして閉じた瞼の裏に映像が浮かぶ。それは明け方に見る夢のように断片的で、現実感はないのに妙に鮮明で質量を伴っている。
熱狂する無音のダンスホール、毒々しい色味の液体が注がれるカクテルグラス、無人の映画館、灰色の曇り空から降る花びら。脈絡のないこれらのイメージ同士を縫い合わせてストーリーが見えてくる。
物語は、往々にして世界観が強いものほどその周辺で完結してしまうことが多い。物語を確立させようとすればするほど、それを覆う膜は分厚く硬くなり、受け取り手を弾き返してしまうのだ。
しかし、sleepyheadは'上質な闇'という一貫性を保ちながらそれぞれの聴き手に合わせて柔軟に姿を変えて、渦の中心へと巻き込むようにこちらへと語りかける。言葉やそこに乗せる情景を丁寧に選び取ってひとつの物語を伝えて分かち合う。そこには語り手も聞き手も存在しない。ただ、全員で眠りに落ちるように醒めない夢を見る。
袖触れ合うも多少の縁。
ここまで読んでくれた見知らぬあなた。
もしあなたが何かに退屈しているならば、sleepyheadと共に1度眠りに落ちてみてほしい。
あなたは一体どんな夢を見るのだろう。
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