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うさぎ年にはやっぱり、海兎!~じいちゃんの小さな博物記⑲

「うさぎは、海にもいるんですよ」と谷本さん。「そして、食べることができるんです」とびっくりの知識を披露してくれました。、
『草木とみた夢  牧野富太郎ものがたり』(出版ワークス)、『週末ナチュラリストのすすめ 』(岩波科学ライブラリー)などの著者、谷本雄治さんの「じいちゃんの小さな博物記」第19回をお届けします。

谷本雄治(たにもと ゆうじ)
1953年、名古屋市生まれ。プチ生物研究家。著書に『ちいさな虫のおくりもの』(文研出版)、『ケンさん、イチゴの虫をこらしめる』(フレーベル館)、『ぼくは農家のファーブルだ』(岩崎書店)、『とびだせ!にんじゃ虫』(文渓堂)、『カブトエビの寒い夏』(農山漁村文化協会)、『野菜を守れ!テントウムシ大作戦』(汐文社)など多数。

 ことしは癸(みずのと)卯年、ウサギの年。そうくるとぼくの頭には、ある海の生き物が浮かんでくる。
「海のウサギ、見たことあるかい?」
「ないよ。ウサギが海に入ったらおぼれちゃうし、サメだっているでしょ」
 孫にたずねると、冗談だと思われた。日本ばなしでも有名な神話の「因幡の白ウサギ」を思い出したのだろうか。
 因幡の国に渡りたくてサメをだました白ウサギは、いよいよというところで本音を口にし、怒ったサメに毛をむしられる。教訓的ではあるが、ここで話したいのは「海兎」だ。
「あのね、漢字で『海兎』と書く生き物がアメフラシなんだ。英語の『シー・ヘア』も、海のウサギという意味だよ」
「へえ。アメフラシのことなの……」
 本で読んだのか、アメフラシそのものはよく知っていた。いじめられると雨雲のような紫色の液体を出すことから、「雨降らし」と命名された生き物だ。「海兎」は、触角をウサギの耳に見立てたあだ名である。

海中を進むアメフラシ。分類上は貝の仲間だが、殻は体内にあるため、外からは見えない
こうして見ると、なるほど耳の長いウサギだ。「海兎」の命名に納得? 
でも、牛にも似ているよね
水槽に入れて撮った写真。からだの模様もデザインも、なかなかおしゃれだと思いませんか? 

 興味深いのは、初夏の繁殖行動だろう。カタツムリと同じで雌雄同体なのだが、頭の方にオス、背中の後ろにメスの器官を持つ変わり者。そんな特殊事情から、交尾の際には数匹が電車ごっこさながらの数珠つなぎになる。
「いまから探しに行くか?」
「冬でも見られるの?」
「2月につかまえた浜辺があるんだ」
 1時間ほど車で走り、房総のとある海岸に着いた。浜を歩くとクラゲとナマコが見つかったが、アメフラシの姿はない。空模様があやしかったので、残念ながらあきらめた。

浜に打ち上げられたアメフラシ。それだとわかったときには、冬の海からの贈り物だと感謝した。今回は残念ながら、見つからなかった 

 じつは「海兎」もウサギも、島根県の隠岐の島とかかわりが深い。因幡の白ウサギがいた島だという伝説がある一方で、古くからアメフラシを食べてきた島でもあるからだ。
 そんな食習慣を旅行雑誌で読んでから20年後、隠岐の島に初めて渡った。季節は冬だったが、ありがたいことにアメフラシの伝統料理が食べられた。捕獲直後に内臓を取り、冷凍保存してあったものだそうだ。

「ずらり並んだ調理前のアメフラシの冷凍品。
これを食べるのだと思うと、腰が引ける人がいるかもしれない

 出されたのはニンジン、ゴボウなどに混ぜ込んだきんぴらと、酢みそあえの2品。冷凍品はウサギというよりも黒い獅子頭に見えたが、その味にも意表をつかれた。

きんぴら。アメフラシ自体に個性はなく、その他の素材の味がしみこんだ感じがした。
味覚が鈍く、食リポは苦手。うまく表現できないのが残念だ
アメフラシの酢みそあえ。かすかな歯ごたえはあるが、ナマコほどのコリコリ感はない

 見た目とちがって、苦くない。ナマコのような歯ごたえもない。強い個性がないから、どんな料理にも使える食材だと教えられた。
 ただし、アメフラシならどれも食べられるかというと、そうでもない。毒のある海藻をえさにしていたものだと食あたりを起こす。
 「海ぞうめん」と呼ばれるその卵も同様で、ふつうは食べない。ところがまぎらわしいことに、糸こんにゃくのようなウミゾウメンという食用海藻があるから油断は禁物だ。

「海ぞうめん」と呼ばれるアメフラシの卵。ラーメンにも見えるけれどね
「海ぞうめん」を拡大撮影した。なるほど、卵がいっぱい詰まっている

 ことわざにいわく、「生兵法は大けがのもと」。伝統食になっている地域のアメフラシは無毒の海藻を食べているものだろうし、「海ぞうめん」みたいに名前だけで食用になると判断するのも安易すぎる。ところ変われば、品も呼び名も変わる。
「じいちゃんは野生のものをすぐに食べさせようとするけど、ちゃんと調べてからにしてね!」
 孫の母親である娘によく、小言をいわれる。
 このことわざ、ぼくへの戒めかもしれないなあ。