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ぼくと『せかいいち うつくしい ぼくの村』——小林豊さんインタビュー

アフガニスタンのパグマンという小さな村で暮らす少年・ヤモの1日を描いた絵本『せかいいちうつくしいぼくの村』。
小学校の教科書にも掲載され、刊行以来多くのこどもと大人に愛されてきました。

出版から25年。この間にアフガニスタンを取り巻く情勢は大きく変わりました。
だからこそいま、この絵本が伝える「変わらないメッセージ」にあらためて耳を傾けたい——
そこで、作者の小林豊さんのアトリエにおじゃまして、この作品にこめた思い、制作当時のこと、また、なぜ戦争はおわらないのか、よりしあわせな未来を築くための絵本の可能性について、お話をうかがいました。

(聞き手:編集部・小桜浩子、浪崎裕代/2020年12月14日・小林豊さんアトリエにて)

小林豊(こばやし・ゆたか)
1946年、東京に生まれる。立教大学社会学部卒業。1970年代初めから80年代初めにかけて、欧州から中東・アジア諸国をたびたびおとずれ、その折の体験が作品制作の大きなテーマとなっている。内戦の続くアフガニスタンの小さな村を舞台にした『せかいいちうつくしいぼくの村』(産経児童出版文化賞フジテレビ賞)『ぼくの村にサーカスがきた』『せかいいちうつくしい村へかえる』のほか、『まち』『えほん北緯36度線』『とうさんとぼくと風のたび』『えほん東京』(以上、ポプラ社)、『ぼくの村にジュムレがおりた』(理論社)、『淀川ものがたり お船がきた日』(岩波書店)など、多数の絵本作品がある。

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せかいいち うつくしい ぼくの村
春には木々に花がいっぱいに咲き、夏にはあんずやすもも、さくらんぼが豊かに実る小さな村・パグマン。そこで暮らす小さなヤモは、戦争に行ったにいさんのかわりに、とうさんといっしょに市場にさくらんぼを売りに出かけます。うつくしい風景と人びとのあたたかな暮らしぶりが心に残る絵本。
シリーズとしてぼくの村に サーカスがきたせかいいち うつくしい村へ かえるも刊行されている。

■アフガニスタンとのはじめての出会い

——『せかいいちうつくしいぼくの村』が刊行されてからちょうど25年になります。この絵本を作ろうと思ったきっかけを教えてください。

小林豊さん(以下、小林) ぼくがアフガニスタンの魅力にとりつかれた、というのはあるかもしれないですね。ぼくがはじめてアフガニスタンに行ったのは、20代前半から半ば、1971年頃です。もう半世紀も前になるけれど、大学を卒業して、仕事をちょっとしてから、そのお金を持ってヨーロッパに行ったんです。芝居を学ぼうと思って。それで、ヨーロッパをさんざん旅して、そのあと、アジア方面に向かいました。砂漠でひどいめにあったあとにたどりついたのがアフガニスタン。
そこは、砂漠のなかにある山の緑に囲まれたひじょうにうつくしい隠れ里で、それをぼくは最初に見ちゃったんです。

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▲小林豊さん

小林 アフガニスタンに入る前があまりにひどかったんですよ。砂漠ばっかりだったから。砂漠をずっと旅して、もう暑くて暑くて……死にそうに暑かったんです。
それで涼しくなって、緑が見えて、水が見えて、人びとがいて、村があって、それはすばらしい桃源郷に見えました。
たしかにそこは、当時の世界からも「前時代的な国」というふうに見られていたんですよね。ちょっと変わってる、というか。
でもそういった「オールドファッション」っていうのは、誰が見ても、自分たちの原風景みたいなものを垣間見ることができるわけじゃないですか。
ぼくは、そういうところも共感しながら、彼らの生活の中に入っていったっていう、最初の体験があったんです。

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▲アフガニスタンの小さな村・パグマンの春
(『せかいいち うつくしい ぼくの村』より)

小林 あのころは経済がのぼりはじめたころで、みんな忙しくなって、走りだして。世界中が何かラッシュになってきていて。そういう時代に村の人たちはのんびりとやってるから、よけい印象に残ったんですね。
昔ながらの家族生活とか、古い因習もたくさんあったし、理不尽なものもたくさんあって、それなりにむかつくこともたくさんあったんだけど(笑)。でも、やっぱり景色と人間と生活とがとてもマッチしてたんだよ。

そのころの日本はといえば、70年に大阪で万博(日本万国博覧会)があって、ぼくはそこにいあわせたくなくて日本を出たという部分もあるんだけれど、まちや道がどんどんコンクリートのかたまりになっていって……。地下鉄ができて、いつも騒音の中にいる感じで、「あれ?」と思ったよね。
まちの開発や経済の成長のスピードに追いついていかれない、これはもう一度考えなおさなきゃいけない、とみんながそんな時代的な要求を持っていたような気がするけど、ぼくなんかは外に出るという選択肢でもって、ヨーロッパへ行き、アフガニスタンを知った。
まあそれがよかったのかわるかったのか……(笑)

ぼくがそのときに見たアフガニスタンの村の家は、日干しレンガの家。日干しレンガって空気を通すんだよ。暑くなるとすーっと外の涼しい空気が入ってくる。寒くなると、壁の中の空気が膨張して外気が入ってこない。昔の洞窟生活を地上に復元してるわけでね。とても居心地がよくて、よく眠れるんだよ。

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▲夕暮れ、日干しレンガの家にあたたかな
灯りがともり、村の人びとはお茶やおしゃべりなど、
思い思いに過ごしている
(『せかいいち うつくしい ぼくの村』より)

■砂漠での体験がぼくに絵を描けといった

——画家になろうと思ったのも、この旅のとちゅうでのことだったと聞きましたが。

小林 そう。最初は芝居をやろうと思って、フランスに行ったんです。本格的に絵を描きたいと思いはじめたのは、砂漠に行ってから。

ぼくはそのころ本を読む趣味がなかったから、ヨーロッパでもノートを買って絵を描いてたんです。絵の授業はきらいだったけど、絵を描くのはきらいじゃなかったから。
絵を描いても、あんまりうまくないし、うまくないなと思いながらもやっぱり、絵を描くとおぼえるんだよ、現場を。現場をおぼえるし、頭に入るし、文章で書きとめるよりもずっと入るんですね。
あとで見なおすと、描いたラインの1本1本、面のひとつひとつが、それぞれそのときの記憶と結びつくという不思議な体験があったんで、ずっと、絵はちょこちょこ描いていたんだよね。

そして、ヨーロッパをはなれて砂漠へ行ったわけだけど……。砂漠って、いろんな約束ごととか、ごまかしとか、今までの常識とか、そういうものが全部通用しなくなるんですよ。手がかりが何もないから。まさに「とりつくしまがない」とはこれだろうと思った。
あそこはお金があっても何ともできない。水以外は何にも役に立たなくて、人と出会っても助からないし、道を歩いてて水に出会うまで……出会わなければ死んじゃう。砂漠はもちろん日かげもない。木かげがない、岩かげがない、谷間もない、かくれるところがない。

そんな場所に立つと、自分のまわりに360度広がる地平線があるわけ。地平線というか砂の大地というか。そこにあるのは太陽だけ。太陽と……自分がいるはずなんだけど、自分なんか見えないわけだから。
太陽がものすごく強くて、ちょっとでもこっちが弱くなると、ぶっ飛ばされて死んじゃう。太陽にいつもぶん殴られてる感じ。
そこで、絵を……。夕方太陽が落ちた瞬間の光の乱舞、見たことのないグラデーション……。光がダイレクトなんだよ。屈折したり、あいまいにぼかしてくれたり、「美しく化粧する」ってことがない。ダイレクトだから、一瞬の色の変化というのも太陽の光が砂の上をバーッと走ってくる。最初は金とか銀が飛ぶんだよ、パンパンパンパンッと、ほんとに。で、朱が走って。

とてもじゃないが描けない。紙の上に、ただ1本の線を描いて終わっちゃう。地平線、見えるのはそれしかないんだもの。たしかなものは。
それさえ、むこうへ行けばむこうへ行くほど遠ざかる。今までの常識の中で作りあげてきて学校の中で教わってきたこと全部、役に立たない。
このときの体験がぼくに絵を描けといったというか、絵を描きつづける——画家になるきっかけにはなってますね。

■アフガニスタンという国を絵で表現したい

——そうして旅をおえて日本にもどってきて、画家として絵を発表しながら、『せかいいちうつくしいぼくの村』の構想を練っていったということですね。

小林 はじめてアフガニスタンに行って魅力にひかれて、それから何回も行くうちに、いろいろな裏側が見えてくるわけですよね。社会が見えてきて……。いろんな問題が起きるたびに政権が変わるという状況になっていったし。

そんなこともベースにあって、あの国を絵に描きたいと思ってたのかもしれない。絵に描いて、それをあらわしたい、と。景色はいろいろ描けるんだけど、あの国はそれだけじゃないんだよね。それだけじゃ納得できなかった。
でも、この国を表現するには何がいいのかがわからなくて……。アフガニスタンの絵はたくさん描きましたけどね。

——絵本にしようという思いつきはなかったということですか?

小林 なかったね。絵本っていうのは考えの片隅にもなかった。最初は、紀行文を書いたら、まわり道だけど何とかなるかなと思って、書いたには書いたんですよ。

——それが『なぜ戦争はおわらないのか』(ポプラ社、現在品切れ)ですか?

小林 そうです。昔「アフガニスタン絵巻」という展覧会を何回かやって、そこにポプラ社の編集者が来て、「本を書きませんか?」って。
この本の表紙絵は、村の親子のほんとの生活を描いたもの。あ、この子が『せかいいちうつくしいぼくの村』の主人公のヤモのモデルだよ。
絵本に登場するのは、実際にぼくが出会った人たちですからね。名前も変えて、年齢も変えて、顔かたちも変えていますけど。

なぜ戦争はおわらないのか表紙絵

▲『なぜ戦争はおわらないのか』表紙絵より

小林 あんなに自己完結してる村々、あんなにしあわせそうな村々……ああいう世界は見せてもらってやっぱりありがたかった。ぼくがアフガニスタンを表現したいと思うのは、それに対する感謝かもしれないね。

でも、いろんな問題が内在していて、戦争はずっとつづく。それでやっぱり「なぜだ?」と思うわけです。そして戦争がなかなかおわらない。おわりそうになると、またはじまる。「ぼくのうつくしい村」がこんなふうになっちゃったのはなぜなんだろう?
「せかいいちうつくしいぼくの村」っていうのは、ぼく自身の村でもあったし、主人公たちの村でもあったし、世界中の人たちの村であったわけで。なのになぜその村がなくなるんだろう?
結局この村をなくしたのは、戦争じゃなくて、ぼくら自身なんだよね。残念ながらいま、そこらへんがよくわかんないんだけど……

この村もいままた復興してますけどね。でも、「せかいいちうつくしいぼくの村」というんじゃなくて、今度はもう少し便利な村になっていくわけですよ。それはそれで復興が容易だからいいんだと思うけれどね。コンクリートのまちになっていくんだよね。当然のことながら。復興ってのはやっぱりそういうことで……
日本だって、昔のよさを残しながらまちを作ろうとしたら、ものすごいお金がかかってしょうがないわけじゃないですか。技術者もいないし。アフガニスタンにもだんだん技術者がいなくなるだろうね。
でもまあ、それは求めるものではないけど、それが彼らのほんとのやりたいことなのかなって、ちょっとぼくは思うんだよね。彼らはそれ(グローバリゼーション)がいやで戦った部分もあったはずだからね。

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▲『なぜ戦争はおわらないのか』と
『せかいいち うつくしい ぼくの村』からはじまる
「ぼくの村」シリーズの3作


——この読み物のあと、絵本『せかいいちうつくしいぼくの村』の出版ということになるわけですね。

小林 『なぜ戦争はおわらないのか』には、ぼくが描いた絵もちょっと載ってるでしょ? これを編集長が見て、「絵本はどうか」という話になって。ぼくは絵本なんて知らなかったからさ。読んだことなかったんですよ。
これも最初は、アフガニスタンの村の老人の話にしようと思ってたんだ。その老人の名前がフィンランドのあの有名なキャラクターの……

——トーベ・ヤンソンの、ですか?

小林 そう。そうしたらさ、その名前はやめなさいって。まねしたと思われるって、みんなからダメだといわれて。「何がまねなんだ、ほんとにその名前のじいさんがいたんだよ」っていったけど(笑)。
……そんな話もありましたね。いま、思い出した。

それで、題名も決まらないままに、描いていったんですね。村に対する愛着で、「こんなうつくしい村があったんだよ」というのを描きたかったし、村がひんぱんに戦場になって、だんだん荒廃していくというときだったから、「ぼくらが知らないうちに、こういううつくしい村がなくなってますよ」っていうのを知らせたかった。
いろんな戦争のかたちってのも見せつけられたよね、さんざん。まあそれによって食ってるやつらもたくさんいたから、なかなか戦争はおわらないんだけどさ……

あくまで「うつくしい村」といういいかたは、外側から見たものいいです。さて、その内側は?
すると、それぞれの思いが立ち上がってくる。ほんとうにうつくしいものというのは、誰にとってうつくしいものなのか? あなたの? わたしの? それとも誰の? 答えはそれぞれの人の中にあるわけです。

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▲パグマンの村をはなれていた
ヤモの友だち・ミラドー。
長くつづいた戦いがおわると聞いて村に
かえってきたが、村は何もかもこわされ、
すっかりようすが変わっていた
(『せかいいち うつくしい村へ かえる』より)

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▲『せかいいち うつくしい村へ かえる』の
ラストシーン。
「せかいいち うつくしい 村は、
いまも、
みんなの かえりを まっています」

■『せかいいち うつくしい ぼくの村』をアフガニスタンのこどもたちに手渡して

——こうしてできた絵本をたくさんのこどもたちが読んでくれていますね。
日本だけでなく、アフガニスタンのこどもたちにも届けたと聞きましたが。

小林 2000年以降のことだと思うんだけれど、たまたまお金を出してくれる人たちがいて、パキスタンで1万部作ったんですよ。ダリー語(アフガニスタンの公用語)に翻訳して、ハードカバーの本を作ってアフガニスタンのこどもたちに持っていこうという計画。

ぼくはこの絵本を日本で出して、いままでアメリカとかイギリスとかフランスくらいしか、外国の名前を口にしたことがないようなこどもたちから「アフガニスタン」っていう名前が出るようになって……。それがとてもうれしかったんだよね。遠い遠い国の話を日本のこどもたちが口にする。
それがほんとにうれしくて、そのことをアフガニスタンのこどもたちに伝えたかったんだ。きみたちのことをちょっと気にしてますよって。「ない国」じゃなくなってるよって。

それでカーブルの会場で本を配ることになりました。以前、当時のアフガニスタンの副大統領に会ったときにいわれました。「支援はありがたい。そして、われわれの国を知っていてほしい。覚えていてほしい。いつも思い出してほしい。ない国みたいに無視しないでほしい」と。「それがいちばんだいじな友情で、支援だ」と。

ぼくもそれはよくわかる。人に忘れられ、無視され、知らないふりをされるのは、ほんとうにつらい。「ああ、あの人知ってますよ」って、いわれるのがいちばんうれしい。何かを無理やりくれるよりもずっとうれしい。

——絵本を手渡して、こどもたちはどんなようすでしたか?

小林 アフガニスタンも昔は輸入品の絵本があったけど、こどもたちはそれをほとんど知らない。本っていうのはほとんど流通していない時代だから。
だからぼくは本を無料でもらってみんな、うれしそうにすると思ってたんだよ。でもあんまりうれしそうじゃなかった。たぶん緊張してたんだな。
でもね、本をもらって席にもどったこどもたちは、絵を見て笑ったり、なごやかに話したりしてるんです。文字は読めなくてもそれなりに楽しいんでしょうね。
お母さんに読んでくれとたのんでる子もいた。けれど、お母さんも文字を読めないんです。お母さんたち、30歳前後だと思うんだけれど、そのときもう20年以上戦争がつづいているから。彼女たちも文字を勉強する機会がなかったんです。
「ダリー語に訳してあるから、読めるだろう」とぼくは思っていたから、ひじょうに残念でがっかりした……

結局、みんなが自分の胸にかかえて、あの本をもらって帰っていった。
「あとでこれ、売ってもいいんだろう」と思ってるんだろうけど、ぼくは売ってお金にすればいいと思った。
それから、会場のまわりに銃を持った少年兵がいたんだよ。彼もやっぱりこの本がほしい。バザールに持っていけば売れるし。本を手にして、じっと見てるんだよ。中を開いて読んでいるようなふりをするけど、読めないわけだよ、もちろん。

でも、彼がその後どうしたかっていうと、この本のにおいをかいでいるんだよ。これがぼくにとってはものすごく印象に残った。
においといえば、まちの中には生活に直結したパンや焼肉の焼けるにおい、そしてふいにただよう火薬のにおい……そんな日々のにおいの中で、はじめて本というもののにおいをかいだ。少年兵にとっては、はじめての文化のにおいだったのだと思う。
ぼくも小学校ではじめて自分の本をもらったとき、その手ざわりに感動して、思わずにおいをかいだ経験がある。そのときの陶然とした印象が今も残っている。
まちの日常から想像もできなかった、紙とインクのにおい。……そのとき思ったんだ。本というのは、その形態自体が文化なんだ。

■絵本の多様性、そして可能性

——お話をうかがって、アフガニスタンの人びとのこと、いま起こっていることを、もっと知りたいと思いました。

小林 アフガニスタンと日本はほぼ同緯度にあるから、西を向いて思いをはせれば、そこにたしかにヤモがいるんです。
地図を広げてアフガニスタンを見つけるだけでもいい。自分がその国を気にすることにつながるから。もちろん『せかいいちうつくしいぼくの村』を読んでくれたら、ぼくはとてもうれしい。
それに絵本は、とてつもなく大きな可能性を持っているもの。絵を見るだけで楽しめる、さまざまな読み手が語ることで多様性が生まれる。

——いろんなヤモが生き生きと笑いはじめますね。

小林 読み手その人のことば、声をかりると、ストーリーがまたちょっとちがうふうに生きてくるね。その人の声にはその人の歴史がつまってるから、作者を超えた本になれる。
ぼくの場合は、講演会で「絵本を読んでください」といわれても、「眼鏡がない」とことわっているんだけど(笑)。

作者が読むのを聞くのではなくて、絵本は自分の声で読んでほしい。
声に出して読むことがひとつの前提にある絵本には、文字文化ではふるいおとされてしまう「大切なもの」がそこにあると思うんです。

——その「大切なもの」がよりしあわせな未来を築くものであると、わたしたちも信じています。

小林 2001年のいわゆる「9.11」、2010年から12年にかけて北アフリカ・中東地域に広がった民主化運動「アラブの春」、そして、2019年にアフガニスタンで命を奪われた中村哲さんのこと……それらは底辺でつながっているように思います。ぼくもいまのアフガニスタンを見据えて、何かを書かなくちゃならないと思ってます。

——小林さん、これからの作品も楽しみに期待しています。きょうは長い時間ありがとうございました。

36度線地図

▲『えほん北緯36度線』(小林豊 作・絵)の地図より

■小林豊「ぼくの村」シリーズ
せかいいち うつくしい ぼくの村
小さなヤモは戦争に行ったにいさんのかわりに市場へさくらんぼを売りに出かけます。戦争のなかでも明るく力強く生きる人びとを描く。産経児童出版文化賞フジテレビ賞受賞作品。

ぼくの村に サーカスがきた

戦争のつづくアフガニスタンの小さな村にも、秋の訪れとともにサーカスの一団がやってきた! 生きることのすばらしさを描く絵本。

せかいいち うつくしい村へ かえる

サーカスの笛吹きとして世界中を旅してまわる、ヤモの友だち、ミラドー。長くつづいた戦いがおわると聞き、ヤモのいるなつかしい村に帰ってきたが……。

■小林豊の本
なぜ戦争はおわらないのか ぼくがアフガニスタンでみたこと
いま、イスラム社会で何が起こっているのか? 民族紛争に解決の道はないのか? アフガニスタンの人びとのくらしを見つめる中で考える。(現在品切れ)