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宗教画とピカソ。象徴と抽象。
海外(とくにキリスト教圏)を旅行すると各都市に有名な教会があり、観光名所となっている。
自分も旅行中よく教会を訪れる。1週間に一回以上訪れているからキリスト教徒の人よりも教会に行く回数は多いかもしれない。
教会内に設置されている宗教画は神秘的な力をもっている。
宗教画はそれが一般民衆や信仰者が見た時に影響を及ぼすように描かれていて、とても象徴的と言ってもいいかもしれない。文字が読めなくてもその象徴的な絵で神の偉大さがわかる。
キリスト教徒ではない私でも教会内で宗教画を見るときはいつも圧倒されてしまう。もし時代と生まれる場所が少し違っていて、キリスト教を宣教されていたら信仰していたかもしれない。
一方、ピカソの絵は解説がなければ意味がわからない(少なくとも私には)。しかし、その抽象化された絵を読み解こうとする時にその人は自身の内面を覗き込む。
鑑賞する人はピカソの絵を見て「これはなんだ?」と考えて、次にタイトルをみて「これが女性!?」と驚き、また考える。「女性?まず人間なのか?人間に見えるところは?たしかに中央の三角形は下半身で、立っているようにも見える。もしかしてその上のひし形は胴体か?だんだん人のように見えてきた。ではこの絵でどの部分が女性なのか。もしかして中央の白と黒の丸は乳房を表しているのか」など。
ピカソの絵をみて「女性に見えるところを探す過程」で私の中で女性の定義として「乳房があること」が浮かび上がってきた。別の人はまた別の部分に女性を見出すのかもしれない。
ピカソの絵はそうやって自分の中の概念と照らし合わせていく必要がある。
パリのピカソ美術館で「The Bull」と表された11枚の作品をみた。ピカソは細かく描写した雄牛の絵を経て必要な線だけを残していった。最後の一枚では数本の線で描かれているがそれが「The Bull」だということがわかる。
抽象化するということは本質を捉えること。雄牛の本質とは「尻尾、二本の角、大きな胴体、4本の足、生殖器」なのかもしれない。
削って削って削って抽象化していく。重要なもの、本質が見えてくる。そんな気がした。
「それが人間だとわかるのは何故ですか?」「手のようなものがある、足のようなものがある、顔のようなものがある、目のようなものがある」「ではそれが手だと思うのは何故ですか?」「5本の指がある」などなどどんどん問いかけてくる。
自分がそのものをどのように捉えているかを再確認させられる。
その絵が「〇〇に見える」と思う時、〇〇をどのように認識しているかがわかる。
そういう見方が正しいのかはわからないけど、考えながら絵を見るのは楽しいな!
宗教画とピカソの絵では存在意義が違うのだな。象徴と抽象。