反知性の時代①~身体性とは何か
「知性とは何か」ということについて、ここ五年ほど悩んでいました。
それは社会全体の合理性への反感から生まれた問いでもあったし、もっと個人的な、自分にとって知識や思考がどういう意味を持つのかという実存的な悩みでもありました。
答えの見えない問いに思えたこともありましたが、最近になってようやく一つ目の到着点と思える場所に辿り着きました。まだまだ真理への道は遠いですが、ここで一度自分の考えを文章として整理しておきたく、拙文ではありますがnoteで公開しようと思い至りました。
読みづらい箇所や疑問を持たれる箇所も多々あるとは思いますが、どうかご容赦願います。
反知性の時代
第一章
知性は、人間を他の動物から区別している、いわば人間のアイデンティティである。しかし、だからといってそれが人間を幸福にしているとは限らない。
この論考では「身体性」を知性の反義語として定義した後、知性の象徴である科学と対比して宗教について論じる。最後に、AIが人間の知性というアイデンティティを奪うという観点から、これからの時代における知性のあり方を探る。
現代では人間の身体性という概念が軽視されすぎている。そして、この傾向は情報化社会、AI社会において益々加速するだろう。私はこのことを問題視して、身体性という言葉を定義した。
身体性とは、①人間の身体ひいてはこの世界に意識を差し伸べること。②目の前にあるものをデジタルの情報として処理するのではなく、アナログな刺激として受け取ること。という風に説明される。知性ではなく感性でこの世界に対峙することで幸福になれるというのが身体性の中心の意味である。
そのためには知性主義、すなわち脳への依存から脱却し、人間にとっての身体の価値を再評価しなければならない。
たしかに、脳は人間を他の動物から区別する重要な器官である。人間は脳の発達によって自然界の生存競争を生き延び、ここ数千年の間に食物連鎖ピラミッドの頂点へと君臨した。これに鑑みれば、パスカルやデカルト、その他の哲学者が人間の本質を思考ないしは脳に置いたというのも納得ができる。
しかし、脳はあくまで身体の指揮官でしかない。脳を生命の本質や、あるいは人間にとっての幸福の根源だと考えるのは早計である。
ドイツの哲学者ハンス・ヨナスは、生命の本質は、人間を含めたあらゆる生物の消化や代謝に内在していると主張している。本論考では人間の本質が何であるかという問いにまでは立ち入らないが、少なくとも脳だけが人間の本質ではないというのが私の見解である。
また、我々が幸福と呼ぶ事象も、決して脳だけで作り出されるものではない。ドーパミンやセロトニン、エストロゲンなどのホルモンによって生まれる「幸福感」という状態は生存や生殖のために用意された道具でしかない。我々は幸福のために生きているのではなく、生存のために幸福にさせられているのである。
ここで重要なのが、人間は脳だけでは決して幸福にはなれないということである。その一方で、身体を動かすだけで幸福になれる単純な生物でもない。
身体性という言葉が単に体を動かすという意味でないのは、そこに「感性」という脳と身体の架け橋となる存在を内包しているからである。
我々が五感を駆使して世界や自己、他人と対峙する時、感性が重要な役割を果たしている。例えば美味しいものを食べる時、美術館で絵を観賞する時、川沿いを散歩する時、友人と話をする時、小説を読む時、我々は感性によって感動し、幸福を感じる。無論、何に感動するかは個人に依存するが、その対象がなんであれ、感動は常に感性によって生じる。感性は我々を感動させ、幸福感をもたらし、人生における原動力となる。
これは知性と感性という二つ概念の決定的に異なる点である。知性は感動や幸福感を生み出すことはできず、生きる原動力となることもない。知性はあくまでより良い生き方を目指すための手段であって、目的ではないのである。
身体性とは、感性を用いて自己を内包する世界と対峙し、より深い感動と幸福を得るための概念だと言い換えられる。この概念は、古くは十九世末のニーチェやベルクソンの哲学や二十世紀初頭の反知性主義に通じるものがある。身体性はこれを現代社会に適合するように拡張したものだと考えてもらってもよい。
私がこの概念を今更持ち出したのは、現代において身体性が過小評価されすぎているからである。そして、その流れは今も加速している。
例えば、電車の中ではスマートフォンを弄っていない人の方が稀で、街を一人で歩く人はほとんど皆イヤフォンを付けている。これは自戒を込めて言うが、デスクワークが中心のこの国で身体性を発揮する数少ない機会である通勤・通学ですらも情報を摂取していなければならないほどの情報中毒に陥っている。
また、この傾向は成人だけの問題ではない。コロナ以前から小中学生の放課後の過ごし方は変化しており、外で遊ぶ生徒が減る一方でスマートフォンやオンラインゲームの使用時間が年々増えている。
スマートフォンが我々のドーパミンを支配して感性を使う時間が減ったことは、身体性を発揮する機会が極端に減った第一の要因である。
しかし、身体性の軽視という問題は、インターネットが発達するよりも以前から始まっている。その一つ目の要因は労働環境の変化である。
第三次産業の発展に伴い、頭脳による活動が肉体による活動よりも優位にあるという誤ったイメージが世間で広まり始めた。この誤謬は、自動で行う身体活動が増えたことに起因している。
労働がすなわち肉体労働を表していた時代は、否が応でも肉体に意識を差し伸べなければならなかった。しかし現代では仕事、学習、娯楽においても頭脳が占める割合が増えた。頭脳活動においては身体を動かす作業は無意識で行われる。タイピングや文字の書き込み、コントローラーの操作などの作業がこれに当たる。
この肉体運動のオートメーションこそが身体性の喪失の根本的な原因である。自動で出来ることに意識を注ぐ必要はないから、生産性を高めるために知性を肉体よりも優位に位置づけてしまう。第三次産業の発達、つまりデスクワークの増大はこの自動化の割合を大きく増加させてしまった。
社会全体での生産力を高めるために会社や公教育が知性を重んじるのは仕方のないことではあるが、個人がこの考えに陥るのは幸福なことではない。現代社会においては知的生産のスパイラルから抜け出すのは簡単なことではないから、せめて自分の中では「知性が肉体に先行する」という考え方を捨て、「肉体に知性が付随する」という身体性を明確に意識する必要がある。
身体性の軽視が始まった二つめの要因は余暇の増大である。歴史を振り返れば、余暇と知的活動の間には直接の因果関係が認められるように思う。
例えば中世ヨーロッパの貴族身分は農業や商業を市民または奴隷行わせることで余暇を獲得した。貴族たちはその余暇を科学や芸術に充てたため、文化や科学技術が発展した。
その後の産業革命によって余暇が増えた労働者たちは、その余暇を使って文化活動を行えるようになった。教育の普及もあって、市民にも読書などの娯楽が行えるようになった。
現代に入って家電が発明されたことで、人間は重い家事労働から解放され、主婦(主夫)はその余暇を趣味の時間に充てるようになった。
こうして見ると、余暇の拡大は人間の知性の拡大と関連しており、今まではそれが幸福の増大とも結びついていた。
しかし現代では無料で手軽に脳に刺激を与える方法が確立してしまったために、増えた余暇をほとんど丸ごと情報へのアクセスに使ってしまっている。個人に最適化されたSNSや動画を視聴する行為はほとんど感性を刺激しないため、余暇は脳への依存度を危険なまでに高めてしまっているのが現状である。
AIが社会に進出するようになれば、個々人の余暇は益々増えることが予想される。このような社会で幸福を得るためには、自らの身体性をはっきりと意識する必要がある。
ここで、身体性という概念について今一度整理しておきたい。身体性とは知性の反対の概念であり、知性が脳を拠り所としているのに対し、身体性は感性に依拠した人間性である。知性は目の前の物事を情報としか処理しない一方で、身体性は目の前の世界をアナログな刺激として感性で受け止める。
この二つを少し別の角度で眺めれば、時間軸と言う視点で比較することもできる。
知性が扱っている情報や知識は全て過去のものである。書かれた文字や作られた映像は全て過去に誰かが経験したもので、それらを読んだり観たりする行為は過去の情報を自分に取り入れる行為だといえる。
また、自分にまつわる情報——履歴書に書くような情報や写真、SNSの投稿など「社会的な情報」「知的生産としての情報」は全て過去のものである。我々は、自分という存在が全て過去の情報で規定されていると誤解してしまう。
しかし、現在の自分を規定しているものは他でもない自身の肉体のみであって、現在を生きる存在としての身体性は忘れてはならない。また、我々が生きる世界を規定しているのも現在の「世界そのもの」であって、過去の情報ではない。
まとめれば、身体性とは「今、ここ、わたし」という状態に意識を向ける感覚だと言うことができる。すなわち、自身の肉体こそが自分であるという自覚と、その自分が目の前の世界に没入しているという感覚を、五感を用いて感じ取るのが身体性ということになる。これは、ハイデガーの唱えた「現存在」という概念に近しいものだといえる。
また、「今、ここ、わたし」という感覚は、仏教の禅思想やアドラー心理学に共通する考え方である。仏教における「有心」を無理やりこの論考の言葉に当てはめれば「知性」が相当し、座禅の際の「無心」という状態は「自身を含めた世界の身体性」と一致する。有心を忘れ無心となるという座禅の考え方は究極的な身体性の発揮の仕方ともいえるだろう。
以上が身体性の説明である。
第一章では知性と身体性の対立から、論考の題である「反知性」を紐解いていった。第二章では科学と宗教という対立軸で同様に「反知性」について考えていく。
続き↓
第一章が一番長いので、文量としてはあと半分くらいです。