反知性の時代④~おわりに

 前回の続きです。これでラストです。

第四章

 これまで、「知性」の対義語としての「宗教」、知性の象徴である「科学」の対義語としての「宗教」、人間の知性というアイデンティティが問い直されるという意味での「反知性」
という三つのキーワードをもとに、これからの時代をより幸せに生きていく方法を考えてきた。その中でも、第一章から第三章にかけて中心的な役割を果たしてきたのが身体性という概念であった。
 現代人が喪失してしまっている身体性を思い出す手段はいくらでもあるが、その一部の具体例を挙げる。
 
 例えば毎日の食事などは五感を使う行為であるため身体性を発揮しやすい。しかし、例えばコンビニで売られている弁当を値段とパッケージだけを見て買い、家でYouTubeを観ながら食べるというだけでは全く身体性を発揮できない。画一的なコンビニで画一的な弁当を購入するのには頭しか使っておらず、情報的な行為に留まっている。
 一方で、自分で食材を買ってきて調理し味を確かめながら食べる行為は、五感を駆使して世界と対峙する、アナログで身体的な行為である。食事は、できれば自宅で調理するのが望ましいが、それが難しければ一日一度は飲食店や手作りの弁当などで食事を取り、スマホやテレビなどを見ながらではなく、五感をしっかりと使って食事を楽しむのがよい。それだけで、鈍ってしまった身体性という感覚を思い出し、忙しい情報社会から一時でも離れることができるだろう。
 
 あるいは散歩なども良いだろう。散歩をしていると様々な刺激が飛び込んでくる。行きかう人々の姿、鳥のさえずり、雨の降りそうな重い空気、パン屋がパンを焼く匂い。これらはGoogleマップを眺めているだけでは絶対に得られないものだ。これらの刺激は知性とは何の関係もなく、ただ身体性のみによって人を幸福にする。この感覚は、自分がこの世界の一部であるということを認識するという認識から生じるもので、アドラー心理学でいう共同体感覚の一部であると私は思う。
 
 身体性は、田舎だろうと都会だろうと、朝だろうと夜だろうと条件なく発揮することができる。上で挙げた他にも、喫茶店で珈琲を飲む、親しい人と会話する、美術館に行く、運動をする、ベランダから空を眺める、カフェやバーで音楽を聴く……など、「今、ここ、わたし」という感覚を掴む方法は数多く存在する。我々現代人は忙しいが、だからこそ知性を一時忘れ、五感が運んでくる身体性に身を委ねるという感覚を忘れてはならない。現在の情報社会、そして来たるAI社会を幸福に生き抜く方法は自分の身体にこそ在ると、私は信じている。


結び

 ここまで長い時間をかけて読んでくださりありがとうございます。ご意見やご批判は有難くお受けいたしますので、何か思うところがありましたらコメントいただけますと幸いです。


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