反知性の時代②~科学は宗教よりも優位にあるのか
前回の続きです。
第二章
古代から、知性は人類の発展に大きな役目を果たしてきた。ギリシャ時代の哲学や数学の発展、ニュートンやガリレオの時代の物理学や化学の発展など、科学は人間の知性の集積物として、常に文明の発達を支えてきた。しかし、科学が一般市民にまで広く浸透したのは人類史でみればごく最近の話である。そして、科学の普及と共に影響力が弱まっていったのが宗教である。
宗教は、近代に入るまでは人々の生活になくてはならない存在であった。西洋においても東洋においても宗教は人々の精神の拠り所であり道徳規範であり、哲学であり希望であった。
社会道徳の観点から見れば、科学よりも宗教の方が強い制約力を持つ場合がある。なぜ法律を守らなければならないのか、なぜ選挙に行くべきなのか、なぜ人に迷惑をかけてはいけないのか、という疑念に真正面から答えるのは非常に難しい。なぜなら、法律を守る、政治に参加する、道徳規範を守るという行為は本人に直接利益をもたらすわけではないからだ。このような疑問に答えるには、理屈で納得させるよりも、ある種の洗脳のように「そうするべきだからそうしなさい」と教えた方が多くの人間には効果的だ。このような道徳意識の植え込みは近代までの日本では宗教が担ってきたが、現在では主に教育(公教育及び家庭教育)がその役割を引き継いでいる。
現代の日本では宗教を心の拠り所としている人は少なくなっているが、ものを「信じる」という行為は依然として存在している。理由を抜きにして「これを信じたい」という衝動は、人間に強い意志力を与えるものである。例えば、ある目標を達成できると心から信じている人は、目標達成に疑念を抱く人に比べて努力しやすく、成果も出しやすいだろう。こうしたことから、宗教(及び「ものを信じる」という行為)は社会だけでなく個人にも利益をもたらしうると言える。
宗教の本質は盲信にある。教えられたことを理由抜きに信じて全うするという在り方は合理性にこそ欠けるが、その代わりに強い強制力と意志力をその本人に生じさせる。反対に、科学の本質は懐疑にある。経験的に生み出された法則を様々な角度から疑い、演繹的に法則を積み重ねていく科学という方法論は、これ以上なく合理的な知識体系となった。そして、資本主義的で競争的な社会では合理性ばかりが持て囃され、盲信という知性とは真逆に位置する態度は批判の対象となっている。
しかし先に述べたように、社会道徳や、民主主義の根幹をなす選挙システムは市民の合理的判断ではなく社会それ自体に対する盲信によって成り立っている。この構造は宗教的道徳観によって社会を維持してきた中世から実質的に変わっていない。
宗教が一旦影響力を失った今、人々が再び宗教に根差した生活を送るようになるとは考えにくい。しかし、信奉するという行為までが日常から姿を消し、社会が合理だけで動いているわけではない。盲信という態度は社会を健全なものにする役割を担い、時には人々を幸福にする。
中世では神が、現代では社会が盲信の対象となっていたが、AIが人間の知能を超えると言われているこれからの時代もその構造は変化しないのだろうか。第三章ではAI時代において身体性と盲信がどのように必要になるのかを考えていく。
続き↓