闇のイチジョ時代の話
はじめに
このNOTEは私が書きたいことを自由に書き連ねられるように設けたページだ。本人の体裁や面子なんて構わん。知らん。「主観でブスとかキモいとか言う悪口と、死ねとか怪我しろとか言うような不幸を願う言葉、本人の隠したがっている秘密や過ちを晒す行為」は決して公の場などで使ってはいけないことだと思っているし、自制を心がけている。
しかしこれから記していく私のイチジョ(大学1年生女子)のときのことはすべて、主観的な悪口でもなければ、仕方のない過ちでもなく、責任・判断能力を持った人物が行動したことと、私自らの過ちとの、事実の記録だ。まあ端的に何が言いたいかというとコンプラ守る気はあるよってこと。本人のこと知ってる人も見るかもしれないけどほんとごめんなさいね。
あと私自身も書いてて恥ずかしくなって何度も折れるくらいのレベルの黒歴史私小説なので最後まで読めそうになかったらスッとタブ消ししてね。
〜これまでのあらすじ〜
3月〜合格〜
インターネット上で行われる合格発表のページで、無事に自分の受験番号を見つけた。喜びと安堵とが一瞬のうちにどっと湧き上がり、一緒に見ていた母と、よかったね、よかったね、ありがとう、と抱き合って泣いた。同じ部屋に居た祖父もゆっくりと、
「(本名)…受かったんか…?おじいさん正直あかんと思ってたよぉ…」
と言いながら一緒においおいと泣いてくれた。母の父(つまり私から見て母方の祖父)であるこの祖父はいつもニコニコとしている穏やかな老紳士であり、母の結婚式でも泣かないでずっとニコニコしていたそうだ。そんな祖父が涙を流したには母も私もたいそう驚いたのを覚えている。ちょっとまあ2文目は失敬だと思ったけどね〜。
高校までTwitterやInstagramを禁じられていた私は、喜々として、また開放的な気分でその日のうちに両SNSアカウントを作った。いち早くこの大学の陸上部と繋がり、練習して試合に出たい!と意気込んでいた。
中学、高校と陸上競技を続けてきた私は、高校の合同合宿でとある素晴らしい指導者に出会い、記録を大きく伸ばしたことがあった。この先生(指導者)は後々私が目指し、入学する大学の出身であることが分かり、受験生時代からこの大学でも陸上を続けよう、そして男子歴代1位である先生と共に、女子歴代1位として名を連ねよう、という目標を持ち、勉強のためのモチベーションに繋げてきた。
また、実は「先生の指導で記録が大きく伸びた」とき、高校3年生の春にして次年度分(大学1年次の分)の関西インカレ出場のための標準記録を切ることができた。そのため、早急に部活に戻り、受験で鈍った身体と技術を元に戻し、できるだけ良い形で大会に出場したいと思ったのだ。そしてこの時点で既に「先生と名を連ねられる」記録を手にしていたのだ。
Twitterでよくあるように私も、「〇〇大学△△に合格しました!仲良くしてください!# 春から〇〇大」みたいなツイートをして、幾人もの同類を見つけ、陸上部とも無事にコンタクトを取ることができた。
この3月、前話でも挙げた某イケメン幼馴染?ボーイの彼女が浮気している現場を目撃してしまってNIFRELが因縁の地になってしまったのはまた別のお話。
4月 〜あ、仮面しようかな〜
やがてTwitterのDM機能で同じ専攻の女の子Mちゃんと話して意気投合し、また彼女とは偶然にも通学ルートが全く同じだったので、入学手続きや各種ガイダンスをはじめ、初めての授業も、それからの授業も、一緒に行き一緒に行動するようになった。
入学式や新歓イベントも基本は2人で一緒にいたのだが、時折そこへ下宿生のHちゃんも加わるようになった。Hちゃんはわたしたちよりもキャンパスの近くに住んでいるので、乗り換えたあとから合流するルートで通学していた。やがては彼女も「よく一緒にいるメンツ」となり、私、Mちゃん、Hちゃんの3人でいることが多くなった。
MちゃんとHちゃんは2人ともロックバンドが好きなことが分かり、すっかり意気投合し、3人でいるときも2人でフェスやライブの話をしていたりすることが多かった。ハミられた。
私が全く知らない、HちゃんのInstagramの別アカウントも、ある日Hちゃんが寝坊して遅れそうってこともMちゃんは知っていたし、私が行ったことさえないHちゃんの下宿の家はMちゃんが入り浸っていた。私MちゃんHちゃんを含め5人ほどで京都に行こうと話していたのも、いつの間にか私だけメンバーから外れていた。なにより、大学内で3人でいるときさえも私にだけ話がふられなくなった。というかHちゃんもいるときのMちゃんは、私から絡みに行ってもオモンネ、みたいな反応をするし、挨拶も話もまるで聞こえていないかのようにスッと流すようになった。歩くときも2人が前を歩き、私が後から1人でトボトボと金魚の糞のように情けなく付いていくことばかりになった。
高校の頃、イツメン(いつものメンツ?)らしいイツメンをもたず、色んなクラスやグループ、界隈をフワフワと移動し、それが許容される環境にいた私は、派閥がきっぱりと分けきられた、女まみれの30人もない小さな専攻にいるのが苦しくなった。どうすればいいのか悩み、冷静になって考察してみたりした。どうやらMちゃんは性悪さもさながら、1人以外を相手にできない、グループに超絶不向きな性質なのらしい、と気づいた。実は私が金魚の糞になっているときも、時々だがHちゃんは話をふってくれていたのだった。
結局私は、いつまでもこの状況でいるまいとして別グループへの移動を図り、無事に穏やかな女子が集まる、比較的大人しいグループに腰を落ち着けた。来る者を拒まずゆく者を追わない、とても寛容な子たちの集まりだったので、すぐ馴染むことができ、お昼ご飯を共にしたり休日に遊びに行くようにもなった。
ちなみにこれは余談なのだが、私が抜けたあとのMちゃんHちゃんの2人組には、新たなメンバーUちゃんが加わり、賑やかになったのも束の間、次の標的はお前だと言わんばかりにHちゃんが私同様ハミられ、別グループへと移動を遂げた。いまMちゃんとUちゃんは2人で閉塞的な関係を築きすぎたあまり、専攻内で浮いた存在となっている。
専攻内での女の面倒臭さを嫌というほど痛感した私は、1年生4月半ばにして真面目に仮面浪人を検討しかけていた。同じ専攻で、もうちょっと民度の高い大学へ行きたいな、今からなら十分に間に合わせられるな、と。
しかしこのとき、大学内の別界隈が私の心持ちを支え、引き留めてくれていたのだ。そう、部活である。
新歓が始まる前からTwitterでアピり、入学手続きで既に部のLINEグループにも入っていた私は、入部はもちろん入学の前から殆どの先輩たちに認知されていた。また、私の大学では約15年ぶりの、一般にわりかし珍しい部類に入る女子ハイジャンパー、なおかつたった1人しか現役選手のいない跳躍パートに入る新入生ということで、たいへん手厚い歓迎を受けた。練習に参上したり、新歓ブース前を通ったりすると、私を見つけては下の名前をクソデカボイスで叫んで呼んでくれる先輩がいた。結構恥ずかしかったが、どちらかといえばウレシハズカシといった感情に近かった。この先輩を仮に「絶叫先輩」としよう。
絶叫先輩は例の、唯一の現役跳躍パート(走幅跳)の選手であり、殊に私のことを歓迎してくれていた。私に会う度、犬が尾を振るようにテンションをガンガンに上げて、
「(名前)!今日マット出して跳ぶ?!」
「(名前)!台車載せて運んだるわ!笑」
と、つきっきりで構ってくれていた。先輩の尾はずっと千切れんばかりだった。
私の他に走幅跳、三段跳と1人ずつ同期の男の子が入ったことで、跳躍パートは計4人の、とても賑やかなパートになった。跳躍独自でLINEグループを作るため先輩が私のLINEを追加したのを機に、それから毎日、おはようからおやすみまでずっとLINEをする関係になった。4月24日のことだった。
連日昼夜飽きもせず、部活や過去、今何をしてるかについてなど、ありとあらゆる話に花を咲かせた。先輩と私は似ているようで、実は根底の思考は違うこと、また2人ともHSP的な側面があって些細なことで傷ついて気に病むことは同じこと、そんな深い話までも沢山した。やがて休みの日にも遊ぼうと誘ってもらえるようになり、先輩の香水を買いに梅田のお店を巡ったり、名探偵ピカチュウの映画を観に行ったりもした。これはまだ4月30日と5月5日のことだった。早速デートだ!大学生って展開早いな!というのが当時の私の所感である。バカデスネー。
5月 〜大学生!青春開幕!〜
やがて5月にもなると、そんな先輩と一緒に部活して、帰るときだって一緒というのも当然になってきた。先輩の赤い自転車の荷台に載せてもらい、先輩の背中の後ろで風になびく服の匂いを感じながら、部室から駅までびゅーんと行くのが好きだった。
私は、部活と先輩の学部の拠点があるメインキャンパスとは違うところを拠点とする学部生なので、1年生のうちだけ週2回、一般教養科目を受けにメインキャンパスへ来る日以外には、家から自分のキャンパスを経由して自転車で来ていたため、帰りも自転車を返さねばならずそのキャンパスを経由していた。流石に雨の日は電車を使うので、直接帰ることができた。メインキャンパスの日じゃなくても雨なら一緒に帰れるね、と先輩からLINEが来て舞い上がったりもした。
私がメインキャンパスに来ている日は、食堂で一緒にお昼ごはんを食べた。先輩のバイト帰りや2人の空きコマが被るときは毎度毎度電話した。例のあの関西インカレの行き帰りも、一緒に時間を合わせて電車に乗った。先輩が肩に頼って寝ていいよ、と言ったのでお言葉に甘えたら、ドキドキしてとても眠れなかった。観戦のの帰りに難波に寄って、オタロードをブラブラしたり、先輩の好きな屋台でとっても美味しいケバブサンドを食べたりした。
部活帰りの二人乗りだって、いつしか先輩の「腰に手回していいよ」の言葉に甘えて殆どバックハグみたいな乗り方になっていった。
電車に乗るときも腕を組んだり、脚フェチというらしいあちらは太ももを触ってきたりと、まあベッタリでした。んなもん正式なカップルにだけ許される行為だぞ恥を知れ。
入学入部からおよそ丸1ヶ月がすぎ、私達は「付き合おう」の言葉こそなかったものの、自他ともに「実質カップル」と認めざるを得ないようになっていった。お互い『部内で別れて辛い思いをしたことがあって繰り返したくない』と深夜にLINEで吐露したがために、「正式なカップル」になれないままでいた。いや、ならないほうが都合がいいと思った。だって既にカップルのように親しいし、幸せだし、ただの先輩後輩のように別れの虞もない。ちょうどいいじゃん?と思った。ハイ勘の良い皆さん、お気づきでしょうか?これは愚断です。(突然の思いっきり不穏な伏線)
6月 〜うーん、これはカップル!w〜
部活の新歓の帰り、グダグダに酔った先輩に恋人繋ぎをされた。これはあの本っっ当に恥ずかしいことで、その、懺悔とも言える嘆きなんですが、のちのちLINEで「もう繋いでくれないんですか…?」なんて送って扇情したのは私です。いっぺん死ね私。
6月下旬のある日、競技場練習を終え、前日に約束していた晩ごはんのために、先輩と梅田へ行った。先輩がよく行くというルクアの神座に行った。葛藤しつつめっちゃラーメンにニンニク入れてたな〜〜〜〜このとき。一応女の子(?)とのデート(?)なのにな〜〜〜〜まあええんやけど。
食べ終えた頃にはもう9時頃だったが、まだ帰りたくないな、と思った。先輩もそうだったらしかった。
店を出て先輩と歩き、他愛のない話をしながら促されるようにエスカレーターを上がると、ベンチがたくさん置かれた屋上庭園的なものが広がっていた。既にカップルがたくさんいて、無駄な電灯もないので仄暗い中、前方にはうめきたエリアの夜景が広がっていた。
はじめから決まっていたかのように、ごく自然な流れで1番端っこのベンチに座った。いつも電車に乗るときのように先輩が左、私が右。そのまま時間を忘れて部活の話や授業の話をした。2人でぴーんと足を伸ばして、たまたまお揃いになったコンバースを並べて「お揃いですね!」なんて言って笑って写真を撮ったりもした。ちなみに身長が私162cm、先輩168cmなんですけど脚の長さが同じでした。いや、何とも言いません。身体的特徴でとやかく言ってはいけない。本当にいけない。(戒め)
そんなことをしていると、あるとき先輩の右手が左から、私の腰にすっと回ってきた。は?えっろ。
すみません話戻します。
もう既に先輩の身体も顔もものすごく近くまで来ていて……ドキドキ……いやもう足の先から顎までピッタリくっついていた。そのまま耳元で「(この格好)あかんかな?やめてほしい?」と聞こえてきた。まあもちろんオッケーしましたよ。バカデスネー。雰囲気に呑まれちゃだめですよ良い子のみんなは……たとえいくらベンチで隣のカップルが対面座位みたいにハグしてようともね……
大変恥ずかしいお話ですがそのままピタッとくっついて話してイチャコラしたわけですね周りも私達もそういう空気だったもので。そしてそのままあっという間に時間が過ぎて、時刻は11時を迎えようとしていた。母から怒涛のLINEが届いていて、私も流石にこの時間はよろしくないと思い、「あの…そろそろ時間が…」と告げた。
先輩が立ち上がった。
バッと不意に腕を広げて「おいで!」と言った。
一瞬頭が回らなかったけどハグの合図だ!やった!と思ってしまったので、応えるように先輩の胸に飛び込んだ。先輩との初ハグだ。
緊張と嬉しい気持ちと困惑とで頭がグチャグチャになっていると、先輩が突然私の肩を持って50cmほど私を遠ざけた。
「え、どうしたんですか…?」
『いや…ちょっと…その…男性の生理現象が…ね…?』
先輩のご子息も立ち上がっていた。
男性って大変だな、と思った。笑って流してお元気ですね〜なんて言って、時間も時間なのでハグもそこそこにぎゅっと手を繋いで駅へ行って帰った。手を繋ぐのなんて当然になってしまったようだ。
あ、改札前でもハグしちゃった気がする!ヴォエ!
それから1週間が経ち、大阪はG20の舞台となった。大学は4日ほど休みになり、部活もなくなった私達は暇を持て余して一緒に海遊館や競技場練習に行く約束なんかをしていた。
6月28日のことだった。予定通り先輩と、昼から集まって海遊館館内をぐるっと回った。やはり海遊館は広くて、見応えがあって、とても楽しませてくれる所だった。リニューアルのときに新設されたタッチプールでサメの肌や卵の殻を触ったりなんかしてキャッキャと盛り上がった。本当のカップルみたいに。なんか今ふと先輩がこのとき私の腰に手回してすっげぇ脇腹の肉揉んでたの思い出したわ腹立つ。
じゅうぶんすぎるほどに吟味して、楽しんで、写真も撮って、ゆっくり回ったはずなのに、海遊館から出たとき、時刻はまだ4時ぐらいだった。隣接する商業施設の天保山マーケットプレースも回ってみたりしたけど、やはり晩御飯にはまだまだ早く、解散するにも中途半端で心惜しいような、そんな頃合いだった。施設内のベンチに腰を掛けて、「海遊館 周辺スポット」「大阪 南港 観光」の文字を打ち込み、ググり、色んなサイトを見て良さげな所を探していると、「和むならウッドデッキのある大阪港の突堤で。夕日や夜景の美しさは感動もの!中央突堤(ダイヤモンドポイント)」の文字が飛び込んできた。これや!夕日とか夜景とかこれからの時間めっちゃええやん!ロマンチックやん!
「先輩行きましょうよ!海辺で夕日見えるんですって!景色良さそうですよ!」とノリノリで誘うと、良いじゃん!という風な感じで即決し、私達は突堤へ向かうことにした。
(過呼吸と心拍数上昇により筆者暫しの休憩に入ります)
ただいま。
海遊館の裏から更に海の方へ歩いていけるその場所は、小綺麗だったがその僻地さ故に人気が殆どなかった。ウッドデッキにある10cmずつ3段くらいある段差に並んで腰掛け、ぼんやりとオレンジに染まる空を二人で見た。生憎の曇り空で、途中から太陽を見失い、日の入りを見ることができなかった。ちょっとがっかりしていると段々、というかみるみる辺りが暗くなってきた。夜の帳が下り、背側の観覧車や海遊館はイルミネーションを始め、埠頭のクレーンは暖かい色を灯すようになった頃だった。先輩がこっちを向いてニコニコしながら、こっちおいで!と両膝を立てて座っている先輩の膝と膝の間、足をついている1つ下の段を指して私を呼んだ。喜んで行っちゃったよね。
まあぴったりバックハグするわけですよ、そのまま話したり脚触られたりお互いのこといいにおーいって言ったりしてくつろいだ訳ですよ。
ああ、初めてだったな。
他人に勝手に頭嗅がれて「頭皮のにおいする」って言われたの。
因みにうなじは柑橘系の匂いがしたらしいです。それはねぇ、スギ薬局オリジナルブランドエスセレクト商品のシトラスの香り制汗シートの香りですねぇ。
人類皆パンツで隠してるゾーンまで手が伸びかけたときは全力でだめですよ〜〜って振り払いました。ワイ、GJや。やるやん。
ここで誰も予想だにしなかったハプニングが起こる。まさかのこの静かな海辺であの台所の覇者ゴ〇ブリが姿を現したのだ。
私は虫に強く、なんならセミやカナブンを喜んで触っちゃうような野生児気質なので平常を保っていたが、咄嗟に先輩が虫が苦手なタイプなのを思い出した。取り乱させないように、カッコ悪くさせないように「先輩、驚かないでくださいね、そこにゴキ〇リがいるんです」とゆっくり伝えた。思いの外先輩はハップンドせず、まじか!と立ち上がり、一緒に海の方へ近づいて、柵に腕をかけて話すスタイルに切り替えた。ゴキブ〇め、と思った。
潮風に吹かれながら、遠くに見える淡路島の話なんかをしたりして時間がゆっくりと流れた。
先輩がバッと不意に腕を広げて「おいで!」と言った。
ハグの合図だ!やった!と胸に飛び込んだ。
ああ、先輩の体温が温か……と噛み締めかけていたところ、先輩が突然私の肩を持って50cmほど私を遠ざけた。
「え、どうしたんですか…?」
『いや…ちょっと…その…男性の生理現象が…ね…?』
またしても先輩のご子息も立ち上がっていた。
「はあ…元気ですね…」
『ほら、わかる?』
スタンディングなさったご子息がいらっしゃると思しき部分を私の下腹部にあてがってきた。パニックになった。だって全然分からんもん……。
「え、ごめんなさいよく分からないです…」
『え〜?ほら』
「すみません…よくわかりません…」
ごめん先輩!!そしてごめん先輩のご子息!!ガチでベルトの金具しか分かんなかったわ!!だって見て確認しても別に盛り上がってなかったもん!!
本当に分からなかった。
ご子息事情は脇に置き、もう1度ハグをした。今度は先輩が両手で私の下顎をを掬うようにそっと包んだ。またスタンディングされたのかな、と思った。
先輩が息を整えた。
そして私から見て右、先輩から見て左に首を傾けた。
人の唇って柔らかいんだな
外人さんみたいにほんとに首傾けるもんなんだな
これが人生初めてのチュウだった。
『初めてやんな?ごめんな、オレで良かった?』
「先輩で良かったです」
『事前に言っちゃったら緊張すると思っていきなりしちゃった…』
「そうですね…突然で良かったかもしれないです」
『これで俺と関係悪くなったら大阪の水族館行けんくなるよね…笑』
「いやですよそんなの」
『それは無理かなぁ…』
先輩が観覧車の方を見ながら言ったこの言葉がが妙に不穏で印象的だった。今こんなにいい感じなのにどうして?と思った。はい。バッチリ伏線です。メンヘラ製造機に引っかかってはいけない。本当にいけない。(戒め)
ちなみに言うと正式に言うと私の初キスは高校陸上部の引退試合の打ち上げでポッキーゲームしたときにウッカリ触れちゃった大親友ミヤビちゃんが相手だからな!!ミヤビちゃんのファーストキスでもあるんだからな!!うわぁぁぁぁああん(泣き言)(ミヤビちゃん突然の巻き込み暴露ごめん)
そうこうしている間にまたしても10時を過ぎてしまい、さっき回った施設の飲食店も皆閉まってしまった。しかしお腹はペコペコだったので、2人で近くのファミリーマートで適当に買ったパンなんかを、その向かいのベンチに腰掛けてちょっと急ぎながら食べた。
ファミリーマートの隣、閉店後のゲームセンターの中に〇キブリが見えた。そういう日なんだね。
翌日は競技場練習、翌々日は梅田へ服を買いに行った。むろん全部先輩と。
暫く私の胸には、あのハグのせいで下着に着ていたキャミソールのアジャスターの型が付いていた。
7月 〜はあ、、、〜
この頃、同居していた祖父が大腿骨を圧迫骨折し、入退院を繰り返すようになり、やがて恒常的に入院しているようになった。同時に認知症も日中の傾眠傾向も進み、日付や時間が分からなくなってきていた。日により状態は波打つように変わり、突飛したことを話すこともあれば、見舞いに来た私に「(名前)か、勉強せんでええんか?」と掠れる声で諭すように言うこともあった。意思疎通が段々と難しくなってきた頃、遅れて気づかれた誤嚥性肺炎がゆっくりと、なおかつ確実に悪化の一途を辿っていた。胃ろうにするかの話が上がり、家族内で何度も、彼は回復の見込みがない中でそうした延命治療に頼って生永らえたいだろうか、という話題が上がった。皆が胃ろうは望まないだろうという結論を出した。祖父も80を過ぎていた。つまるところ、このまま「老衰」という形でゆっくりと死期を迎えようとしていた。
父と母には、おじいちゃんはもうあと1ヶ月持たないかもしれないし、二度と退院して帰ってこないから覚悟して、と言われた。
パート長である絶叫先輩に、これから沢山お見舞いに行くからあんまり部活に行けなくなります、という旨の連絡を入れると、『それがいいね』『わかった』といつもより大人しい返事が来た。
それは本当に突然のことで、たしかちょうど先輩と海遊館に行ったあの日から2週間ほど経った日のことだった。久しぶりの部活帰り、いつもの2人、いつもの電車、なのにいつものように会話が弾まない。全ての話題が尻切れトンボのようで、『あ、そう』『ふーん』『へー笑』といった感じに悉く面白くない対応をされた。「どうしたんですか?」と問うても『いや、別に〜?』とはぐらかされるような答えだけしか返ってこなかった。
「嫌われたかもしれない」事象に対するアンテナの感度が異常に良い私は、帰宅までの間、機嫌崩させるようなことしたっけ?嫌なことあったのかな?体調が悪いのかな?と頭をフル回転させて悩んだ。私1人で考えたって答えは出ない、なにかやらかしてしまったことがあるのならすぐ本人に改めて確認してそのことと、謝るべきと気づけなかったことに謝罪の意を示そう、とLINEを送った。
「先輩本当どうしたんですか」
『倦怠期やろ』
「あ、そうなんですか…ええ…」
『うん しゃーない』
「そう…ほってたら治るかな…そんな急に来るんですね…」
『だいたい倦怠期で別れるから分からないお(^ω^ ≡ ^ω^)』
あの日の観覧車と先輩の背中が蘇った。つうか正式な告白もないのに倦怠期なんて言葉よくほざけたなこいつ…
ど〜〜ど〜〜ど〜ど〜ど〜(セルフ宥めタイム)
倦怠期(笑)の話も数個のレスで切り上げられ、別の話にすり替えられた。完全に先輩のペースに付き合わされるようになった瞬間だ。
正式な告白云々はともかく、一応事実上は立派なカップルであったので、暫く彼女の立場として悩み、倦怠期脱出方法なんてものを調べたりしてみた。
私の苦悩とは裏腹に、というよりまるで嘲笑うかのように先輩の態度は悪化の一途を辿った。猛ダッシュしていた。段々と私を荒く扱うようになり、容姿に関する暴言を沢山言うようになった。正しくは、以前から容姿に対するプライドの高かった先輩が他人の容姿にまでときどき口出ししていたのを、私に対しても同様に、いやそれ以上に躊躇わず無遠慮に言うようになった。自他ともに対して容姿にほとんどと言っていいほど関心のなかった私には革命的な方向からの暴力だった。
『目離れてんな(笑)』
『でぶ』
『〇〇先輩はスタイルがきれいなのにな』
『〇〇ちゃんはめっちゃ可愛くなったよな』
『(名前)化粧ケバい』
『ニキビ多いな、ちゃんと顔洗ってる?(笑)』
『なんてびみょい脚になったんや…』
『きつい寄りのひどい』
『(名前)だけ紫ピクミンみたい(笑)』
これまで私を直接目にしたとき、写真を見たとき、本当に色んなことを吐かれてきた。そこそこ気丈な今なら、思い出せば出すほどお前のための私の容姿じゃねぇし!うっせぇ黙れ!と威勢よく憤怒できるのだが、当時は全て真摯に受け止めてしまって悩みきれないほどに悩んだ。それまでなかったコンプレックスが沢山初声を上げた。現在も残留したコンプレックスたちの育児に勤しませていただいております〜。
パステルカラーだった初キスの思い出は、頭をかきむしりたくなる真っ黒な悪夢に変わった。
8月〜盆〜
お盆に入ってすぐのことだった。絶対に忘れられない8月12日、祖父が逝去した。
昼から奈良での記録会を控えていた私が、祖父の状況を鑑みて出場すまいか悩んでいた朝、病院から彼が危篤であるとの報せが届いた。足が悪い祖母と車に乗って、夢か現実かもよく分からないまま急いで祖父のいる個室へ向かい、管にまみれた祖父の、しわしわで弱々しい手を必死に握って「おじいちゃん!おじいちゃん!」と叫んだ。聞こえてる間に絶対伝えたいと思い、声量も高低も調節できない嗚咽混じりの声で「今までありがとう!大好き!」と伝えた。目がピクッと動いたり、心電図が正常な動きに一瞬戻ったりすることがあったが、それも束の間、ドラマでしか見たことのない、病室にピーーという音が響き、医師が時刻と「ご逝去されました。」を淡々と伝える場面というものが目の前で再生された。
優しくて、温和で、にこやかで、社交的で、おしゃべりで、美味しいものが好きで、お洒落で、まめで、可愛らしい老人だった大好きな祖父が、動かない身体だけの存在になった。
それから数時間の諸手続きは案外スムーズに進んだ。看護師さんだったかが受付で装束が買えること、遺体を数日は安置できることを教えてくださった。祖父が生前会員として予めお金を払っていた葬儀会館と連絡を取り、通夜と告別式の日程が決まった。母と、おじいちゃん、いまお盆やからすぐにUターンして帰ってくるんかな、なんて泣きながら話したりしたのを覚えている。
私はこの日の記録会に欠場せねばならないことと、練習をしばらく休むことを絶叫先輩に、通夜や告別式と被ってしまって夏合宿に行けないことを合宿担当の先輩に伝えねば、と思い、安らかに眠る祖父の横でLINEを送った。
3時間経って、合宿担当の先輩からは「ご愁傷さまでした」の言葉と了解した旨、キャンセル料はかからないよ、との連絡が届いた。
いつもは2分以内に返信が返ってくる絶叫先輩からは、既読こそすぐについたものの、7時間経っても返信は来ず、「今日の試合、ベスト記録おめでとうございます」の追撃LINEにもやはり返ってこなかった。それから、彼から連絡が来ることはなかった。
それから1週間ほどかけて、台風による雨風のひどい天候のさなか、ごく親しい親類と、家政婦さんのみで祖父の葬儀が全て執り行われた。
祖父の死から葬儀がすべて終わるまでの間、ずっと先輩からのLINEはなく、心配したり辛くなったり悲しくなったり憎くなったりを繰り返していたがやはり依然音沙汰なく、その代わりに、恐らく祖父の逝去を察したのであろう隣のおじさんから「(祖父さん)の調子はどうですか?」と死んだかどうかを確かめる旨の、気持ちの悪い電話が1日12件ほど着信されていた。ものすごく怖かった。
様々なストレスのせいか、私はこの2週間ほどの間だけ、数種の味に対する味覚を失った。匂いで味わうようなものを除いた、酸味や塩味などが特にわからず、葬儀会館で出された食事も殆ど「匂いがついてて色んな食感がする何か」状態だった。以前からの嗅覚過敏も悪化し、左半身に残留した帯状疱疹ウイルスも、ときどき症状を呈するようになった。
それから1週間ほど経ち、先輩とは共通認識の知人によって、乗っ取りを装ったメッセージを私のアカウントで送ってもらうことで連絡が再開した。
2週間ほどして落ち着いて話せるようになった頃、先輩に「前の既読無視連チャンはなんだったんですか?」と聞いてみた。私も彼も夜になったら腹を割る習性があるものでして。
しばらく『人が亡くなったあとにおめでとうって言われても素直にありがとうとか返しにくい』『喪中ってやつかな』『身内の死後は人との連絡を経つのが〜』云々などとあくまで慣習に則ったものだという不思議な主張を続けたあと、堰を切ったように本音が漏れた。
『あと、感情背負うの避けたかな…』
『言ってしまうとおじいさんが危篤あたりから頻度を減らしてる』
『悪いけど流石に耐えれないと…逃げたとこあったな…』
『自分中では筋通ってるかな…』
要約すると突然冷たくなったのも、連絡や祝電を既読無視し続けて返信寄越さなかったのも、先輩のウサギチャンメンタルで背負いきれなかったからだそうです。
いやいや、せめて必要連絡は寄越してくれ…
あと私主観100%からの視点で言わせていただくと段々と死に近づいて変わりゆく祖父と冷遇&暴言のフルコースの同パート彼氏モドキ(笑)先輩の2つを抱えて1、2ヶ月悩み果てた挙げ句、祖父が亡くなった途端先輩に消息プッツンされて捨てられたようなもんですからね……
それからは、ご愁傷さまの言葉1つもかけられない20歳なんて、頼りたいときに頼れない彼氏モドキなんて、とみるみる恋の魔法(笑)的な催眠状態が解け、いつしか先輩は憎くてたまらない存在となっていた。
10月 〜老害ムーブすな〜
特に何事もなく試合を沢山こなした9月が終わり、季節は大会シーズン終盤を迎えようとしていた。3年生は通常、10月中盤の関西規模の試合で「幹部交代」と称する代替わり、いわば引退を迎えることになっていた。
絶叫先輩は参加資格記録に届かず、この試合には出られなかった。正直なところ、揺るぎない記録上の事実で述べると、本人には悪いが彼は強い選手ではない。少し前まで人となりを慕ってきた人物ではあったが、競技に関しては強い不信感があった。もっとも、パート長の名を持ちながらも全くメニューを作って来ず、毎日毎日練習開始前の集合では、ルーティーンのように『練習内容はフリーです』と言うだけの人形と化していた。
私自身メニューに縛られるのが嫌だったし、(言葉が悪いが)弱い人の作ったメニューなんてやっても強くなれっこないと思っているし、そもそも私の走高跳と、先輩の走幅跳は、競技として160°くらい違うので他パートの事情も知らない輩に勝手なメニューなんて立てられてたまるか、と思っていた。
つまるところ私にとっては練習メニューを作ってこない形だけパート長のままでたいへん都合が良かった。
のに
さあ
なんで?
突如引退試合(?)を終えた途端に、先輩の謎スイッチが入った。先輩は大学院へ進学するそうなので、まだまだ居続け、私達の代が引退するまで現役選手として競技を続けるらしかった。いや、今のパート長は貴方でなく私の同期(推し)(三段跳某県元チャンピオン)なんですけれども…?彼の指導とメニューめっちゃ楽しみにしてたんですけれども…?
試合のない単調な練習で鍛錬を積む冬季を前に先輩は
『明日はこんなメニューするから』
『走練週4でやるから』
とロングジャンパー視点10000%のメニューを跳躍全員に配布した挙げ句、「もう少し跳べれば嬉しいです」「高跳びにはこんなに走練は必要ないんです、たまに抜けますね」という私の言葉に先輩は
『少しでも抜けるなら絶対質が落ちる。全部別でやって』
と切り捨てた。実質的に跳躍パートから追い出されたのだった。いやちょっと待て…なあ…引退した上級生だろ…?いつまでふんぞり返って王座に座った気になってるんですか…?パート長は貴方でなく私の同期(推し)なんですけれども…?いやもういいよ…勝手にやるよ…あのメニューしたくないし…でも…補強運動くらい一緒にやりたいな…と半ば拗ねながら寛容な別パートに入ったり1人でしこしこ練習したりした。 これが彼のことを裏で「老害先輩」と呼ぶようになった所以である。
その後私の心情を心配してくれた同期(私の推し)の神采配により私の部分的なパート編入が許された。いやおかしいだろ私だって跳躍パートの一員だぞ。
ほんと…推ししか勝たん!
先輩と、ちゃんと指示に従った2人の同期たちはその後可哀想なことに記録が思うように出なくなり、特大スランプに入った。
いま 〜おわり〜
先輩との関係はその後、距離を置くうちに段々とリセットされゆき、良くも悪くも全くと言っていいほど関わりのない希薄な関係となった。以前はキャッキャと笑い合っていたのがまるで嘘のようで、同じグラウンドにいても目を合わせずに、会話もほとんどしない。ていうか私あの人の顔見ちゃうと帯状疱疹と神経痛が走るので……。仕方なく連絡があるときは白々しくも赤の他人のように「あの行事の運営についてですが、先輩たちのときはどうされてましたか?」『こうしたよ』「そうですか笑」『ふぁいつ』という感じでお互い穏やかな風にしている。
激しいアップダウンを乗り越え、祖父のいなくなった寂しい我が家でやっと迎えた大学2年生、残ったものは初キスを失ってしまった唇と、ズタズタになったメンタル、両手でも抱えきれないほど沢山のトラウマとコンプレックスだった。
祖父の死がとても悲しかったということはもちろん、加えて人間関係の大崩壊が起こったあの苦い夏の思い出のせいで、祖父の仏壇には未だに真っ直ぐと向き合うことができない。
他にも刷り込みが激しい私は先輩と行ったルクアの屋上庭園も、海遊館も、競技場も、全部が全部因縁の地と化させてしまった。なんなら海辺も夜景も見ると全部ダメージになるし、先輩の赤い自転車に似てる自転車には発狂したくなるし、地雷まみれ人間になってしまった。最近は少しずつ、他の人とその地を訪れ、ものを見ることで記憶を上書きするのに専念している。
最近になってやっと美意識は「人にとやかく言われるから、誰かに選ばれたいから、ではなく、自分のことをの好きになるために容姿を磨こう」というパラダイムシフトを受け入れようとしている。しかしそんなキラキラした理想は未だ建前の段階であるし、本音としては誰かに容姿のことを否定されるのが怖い、ディスられない容姿でありたい、だから可愛くなりたい、という思考に囚われている。未だ頻繁に鏡や内カメラで撮った己を見ては体型や目の位置、肌の調子にまつわる暴言を思い出し、気分が悪くなる日々である。
先輩、逃した魚、これからめちゃくちゃでっかくなりますからね。いつかきっと、精々今のうちに泣き言考えて指咥えててください。
私のこと、モトカノなんてものとして馴れ馴れしくカテゴライズしないでくださいね。
願わくば、もう二度と目の前に現れないでください。