見出し画像

通天閣の下の赤ちゃん  第九話

  退治をする方法はただひとつ、夜、敷布団の回りに万遍無く南京虫退治の棒を差し込み並べるのである。棒は長さ五十センチ位で柔らかい木質で、やや平たい角材の幅の片方に二列に穴が二センチ間隔であいている。この穴に夜中、散々に血を吸った南京虫が巣と間違えて入り込むのである。この虫は蚊のように飛ぶわけでもなく、蚤の敏捷さで高く飛ぶ能力もない。ただひたすらノロノロと這いまわるだけで運動能力は劣る。不細工な麦めし型の鈍重な虫だというのに、夜毎押し寄せ、人を襲い悩ます。この虫を防ぐには唯一、絶大な繁殖力を根絶するしかない。

 なにしろ、ヒロシとユキノが朝起きると、新聞紙を広げ南京虫の棒の穴を下むきにポンポンと叩くのが日課である。するとポロポロ血を吸って膨れあがった大小の南京虫が落ちてくる。それを爪で捻り潰すと、新聞紙が真赤に血の海のように染まる程の数である。ヒロシは平気どころか面白がって潰したが、ユキノは血を嫌がった。だけどヒロシ一人だと手に負えない。新聞紙から脱出する虫がいる程大量だから、ユキノも手助けをした。血のこびりついた爪を水道で洗ってやるとニイッーとユキノが笑った。笑う時は下から見上げる顔が斜めになる癖があった。御褒美にヒロシは厚手の画用紙を二つ折にして、折り目の上からキリンの頭部に鋏を入れる。脚まで切り取って、少し折り目を開放してやるとキリンの形がピンと立つ。ユキノは動物園ごっこが大好きだった。ヒロシが次から次と、毎朝南京虫退治をしたあとで、北極熊、カンガルー、犀、アルマジロ、獏、ライオン、河馬、縞馬、虎、ピューマ、象、駱駝等、天王寺動物園にいる紙の動物づくりをした。檻も売店、案内所、門も揃えた。ユキノはヒロシが登校すると下校迄、六畳の子供部屋いっぱいに紙の動物を並べ、鳴き声まで真似て御機嫌で遊んでいた。それなのに、今は動物たちは箱の中でヘシャゲて、ユキノの微笑はあの世へ消えてしまった。

 「スマン」と何遍自責の言葉が出たことか。ヒロシは紙の動物を何度も足で踏みつけてペチャンコにしてから塵箱にほかしてしまった。

 ヒロシのユキノ追想は途切れようもなく、連綿と続いて終わらない。玩具店でセルロイドの箱の中にフランス人形が飾られている。それを見ただけで泣きだしてしまった。ユキノの大きな目と一緒だと言うのである。

 ヒロシとユキノは茶臼山の底なし池によく魚取りに行った。この池は天王寺公園の管轄で「魚取るべからず」の立て札が立っていた。管理人が時々巡回しては捕魚を監視していた。鯉捕りはもちろん、子供が丸網で掬う小蝦や目高の小魚さえ没収されてそのうえ叱責された。或る日、ヒロシとユキノはバケツの中に掬った小鮒二匹を金魚鉢で飼おうと話しながら池の小道を歩いていて監視人に咎められたことがある。この監視人の顔が桃山病院の看護師の顔に二重写しになった記憶を想起した。執拗さが共通していたのである。

 公園監視人は、この時ユキノの手首を掴んで離さない。大声で「禁止区域で違反をしたら、小さな子供でも許さない。管理室まで連行する」と異様に怒鳴りたおした。何故ユキノはこの種の迫害を受けるのだろう。人々の羨望、ねたみ、やっかみ、嫉妬は強いものだ。

 ユキノはあまりに華奢で、か弱く、そして美形であった。このように美しすぎる者は醜い者たちから羨まれ、纏い付かれ、時によっては、ただ美しいと言うだけで傷つき、抹殺されることがあるのだ。ユキノはいつでも誘拐される危険があった。ヒロシは<子捕り>を一番警戒していた。迫害者だった監視人、看護婦など、こんな連中から絶対守ってやると決意していたのに守りきることができなかった。しかも一番大切に見守ってやらなあかんワテがアイスキャンデーなんか食わしてユキノを殺してしまった。

 思い出の底なし池をぐるぐるとバケツをぶら下げながらヒロシは何周も歩いた。隣接する動物園の外囲いの鉄柵の一本が外れているのがチラッと目にとまった。

第九話終わり  続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?