絵を弾く
「絵を弾く」
今朝の夢。
豊島将之くん、いや、豊島将之先生と、将棋を指していた。
僕が座る位置に対して、豊島将之先生が座る位置は、左側。
つまり、彼我の駒の向きは、直交する方向。
まさに僻(ひが)。
指し手は進み、豊島将之先生のクイーンが、僕のキングに王手をかけて、僕は、クイーンで防いだ。
ん?、なんでクイーン?。
というところで目が覚めた。
さて、昨年から、頭の中をぐるぐると回っている楽曲のイメージは、少しだけ進み、昨日は、少しだけ進んだイメージを絵にするために、少しだけ開発を進めていた。
開発はまだまだ続くのだけれど、その作業を進めていて、この音は、どんな絵にしようか、と考えていた。
ピアノの音が、ぽーん、と鳴る。
その時に、絵はどんな動きをするのか。
アニメーションだから、さまざまな動きが可能になる。
しかし、その、ぽーん、となる、たったひとつの音と響き合う絵は、そんなに多くはないだろうと思う。
この楽曲の、この位置で鳴る、この音。
その音にどんな絵をつける。
それは、ピアノを弾くときに、どんな強さで、どんなタイミングで、どんな速さで、どんな音色で、弾けば良いのか、と、考える作業と同じだ、ということに気がついた。
言うなれば、「絵を弾く」。
と言っても、同じではなく、音楽のように、目を閉じていても聴こえる、というものではない。
では、音がなくて、絵だけ見ていて楽しいか、となると、そうでもない。
なので、「絵を弾く」というのは、やはり、違うのだろうと思う。
たぶん、思考のしかた、というか、使っている精神の領域が、どれくらいかわからないが、少しだけ、同じところを使っている、というような感じなのかもしれない、と思う。
ところで、音と光の関係を意識した作曲家にスクリアビンがいる。
スクリアビンは、音によって色が光る「色彩ピアノ」を考案した人で、彼自身、共感覚者であった、と言われている。
僕はもちろん、ただの人。
スクリアビンのような天才ではない。
ただ、スクリアビンの世界の入り口近くから、スクリアビンの世界を覗き見ているのかもしれない、と思うと、なんだか、わくわくする。
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