グレーゾーン
SNS全盛の昨今において、匿名での批判や非難の応酬である。少しでも何かやらかそうものなら、その情報は瞬時に共有され、追い込まれてしまう。確かにミスはミスだし、フォローしきれない失敗もある。社会的にあるいは人道的に許されないことだって起こり得る。その愚行自体は悔い改めるべきであろう。しかし今は罪そのものよりも犯した人間を匿名の集団が断じているような気がしてならない。それが孕む危険性や凶暴性を危惧している。叩かれれば埃が出ることを自認する僕は。
高齢者介護の現場において、最も避けなければならないことの一つが、僕たち専門職による虐待である。介護事業所および介護施設においては毎年虐待防止の研修を受講あるいは開催することが義務付けられている。だから、僕たちの中には「虐待」への認識が大なり小なりあるはずである。そして、きっと思っている。「虐待はしてはいけない」「自分は虐待をするはずがない」と。さらに、虐待防止が声高に叫ばれる影響で「虐待」という言葉自体に対し過剰にナーバスになっているきらいもある。
ここで考えてみたいのは、誰が断ずるのか、ということである。虐待が公に通報されると担当官による調査が行われ、その行為が虐待であったか否かの判断が下される。そして場合によってはペナルティを課されることもある訳だが、そこまでではない(と現場や管理者が思っている)場合はどうだろうか。
公が示す「身体的」「心理的」「性的」「経済的」虐待および「ネグレクト」には該当しない(と解釈できる)けれど、同じ現場に身を置いている職員からは「?」と感じられるような言葉遣いや対応、態度態様などがそれに当たる。もっと具体的に言うならば、利用者に対して子ども扱いする言葉がけ、指示命令的あるいは高圧的な声掛け、ぞんざいな態度、呼ばれていることに気付いているにも関わらず無視して別の作業をする、利用者そっちのけで介助しながら職員同士で世間話をする…などである。もっと言えば、排泄の内容などごくごくプライベートなことを大勢が居る場所で話すことや技術不足により不快や痛みを与える介助をすることも含まれるであろう。
自分の利用者に対する接し方や周りのそれを思い返したとき、引っかかることは無いだろうか。
虐待ともそうでないとも言える部類の内容だと僕は考える。個人個人の解釈の幅が存在する内容だからである。「明らかに虐待だよ!」と思う人もいれば、「そんな細かいことまで言われたんじゃ、やってらんねー」という人もいると思う。ただ、ココには虐待の芽がしっかりと根付いていることを意識せねばならない。これらのケース、所謂“グレーゾーン”をどこまで広く意識できるかどうかがサービスの質を整え上げていけるかどうかのポイントである。「不適切介護」という言葉を使われることも出てきたが、何をもって「適切」とし「不適切」と断ずるのか。誰がそれをジャッジするのか。現場の一人ひとりだろうか。管理者だろうか。経営者だろうか。行政だろうか。否。言わずもがな、ユーザーたる利用者でありご家族である。僕たちはあくまでもそのジャッジを想定してサービスを作っていくしかない。ライフステージ最終コーナーの伴走者として、どんな立ち居振る舞いが望ましいのか、その方にとって望ましくないのか。最期まで心地よく走り切ってもらうためにはどんなサポートが最適か。走りつつ悩みながら進まねばならないのである。
現場は不安の中にある。決して介護者である自分たちがジャッジできないからである。やっていることがいいのか悪いのか。「介護に正解は無い」なんて言われると余計に不安が増す。だけど己と仲間を信じて現場に立ち、悩みの中で試行錯誤を繰り返すしかないのである。僕みたく悩みの魔宮で徘徊する輩も考えものだけれど(笑)。ただし、不安を全く覚えていない人がいたとしたら要注意。その人は限りなく黒に近いグレーの立ち位置にあるが、そのことに気付けていない。さて、あなたはどうだろうか?