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『北斗の拳』を読みなおす
子どもの頃、喜んで観ていた『北斗の拳』
成長した後、残虐描写のエンタメと思い、すっかり遠ざかっていた。
しかし、この年齢になって再見すると、心をつかまれた。
『北斗の拳』は個人的物語というよりも、社会の縮図でないか、と。
「芸術というものは、すべて基本的にはホメオパシーです。ギリシャ悲劇でも、シェークスピア劇でも、舞台上では世にもおそろしいことが行われますよね。あるいはひどく犯罪的なことが。でも、それは実際の犯罪、実際のおそろしいことの直接的行為ではありません。それは、芸術のフォルムに移しかえられた罪や悪の要素であって、それがちょうど正反対の力を、観る人間の中に呼び起こします。私は逆説的に、こう言います。舞台の上でモラルがお説教されればされるほど、観客はよけい非道徳的になる、と。芸術は本質的に非道徳的なものであり、道徳化されてはならないものだとすらいえます」(子安美知子『エンデと語る』より、ミヒャエル・エンデへのインタビュー)
人間は核戦争後のようなアノミー(無規範)状態に置かれれば、『北斗の拳』のラオウや聖帝サウザーとまでは言わぬが、モヒカン頭のザコキャラのように、残虐なことをし得る存在である。
ザコキャラはなぜ残虐な行為をするのか?
逆らうと、ラオウやサウザーのような絶対権力者に殺されるからである。
皆がシュウのようなレジスタンスに加わるほど、強くない。
しかしザコキャラの残虐さは、果たして報復を恐れてだけの理由からだろうか?
命令をダシにして、実は嗜虐による悦楽を得ていたのではないか?
「彼(アイヒマンー筆者註)は愚かではなかった。完全な無思想性ーこれは愚かさとは決して同じではないー、それが彼をあの時代の最大の犯罪者の一人にした素因だったのだ」(ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン』)
ここでいう「無思想性」とは、思想がないという意味ではない。
自分の行いについて、その是非を顧みないことを「無思想性」という。
「命令だから仕方がない」
「こんな時代だから仕方がない」
「自分が生きるためだから仕方がない」
ハンナ・アーレントのいう「悪の凡庸さ(Banality of Evil)」とは、凡人が悪を成すという意味ではない。
人間としての尊厳ともいえる「自由意志」を、あれこれ言い訳を付けて悪魔に売り渡す愚かさのことをいうのである。
ケンシロウに秒殺されるザコキャラたちにも、親がいるかもしれない。兄弟がいるかもしれない。恋人や配偶者がいるかもしれない。子息がいるかもしれない。
それなのに、なぜ他人に対してあれほど残虐なことができるのだろう?
それこそが「悪の凡庸さ」のポイントである。
身内には出来ないが、他人には冷酷に出来るという想像力の欠如こそ「悪の凡庸さ」のポイントである。
そして、状況が状況なら、自分もザコキャラのように非道を行うかもしれないという、背筋の寒さを感じさせるところが『北斗の拳』のホメオパシー的芸術性だと、僕は感じた。
さすがに『北斗の拳』のザコキャラほど残虐な行為はすることがないが、企業で、地域社会で、冷酷な仕打ちを受けることがある。
また、自分も冷酷な振る舞いをしてしまいそうな時が、多々ある。実際にはしなくても。
状況が悪くても、自分を省みて、踏みとどまれるか。
時勢に利あらずとも、酷い仕打ちをされたとしても、心折れずに立ち向かえるか。
僕はそんな時、ケンシロウの愛と憤怒を友として、理不尽な社会と自分の「無思想性」に立ち向かっていきたい。
なぜ仏教で如来や菩薩だけでなく、神々や明王がいるのか?その意味も再考することができた。
ケンシロウの北斗神拳は、社会の理不尽さ、そして自分の煩悩を断ち切るための、芸術表現だと、今の年齢でやっと気付いた。
マンガはいいものだ。子どもの時楽しんだ内容が、年齢を重ねて深く味わうことができるのだから。
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