日々ログ20190522 「今こそ見城徹を擁護する」
そして、見城徹である。
このところネットで見城さんの名前を見ない日はなかったが、どう贔屓目に見ても「身から出た錆」であることは誤りないだろう。
でも僕は、そんな見城さんを嫌いにはなれない。
「愛憎相半ばする」が正直な気持ちである。
いや、嫌なところもたくさんあるけど、それ以上に好きなところが多いかもしれない。
僕にとって見城さんの最大の魅力は「器の大きさ」。
林真理子と見城さんに『過剰な二人』という共著がある。
林さんと見城さんは、若手時代に蜜月関係にあったものの、ふとしたことから口論。それから16年間「絶交」していたという。但し、やはりふとしたきっかけで関係が修復。『過剰な二人』は関係修復後に上梓した書籍である。
例えば林さんは、百田尚樹『殉愛』(幻冬舎)の事実関係の疑義について、インターネットで騒動となっているにも関わらず、週刊誌がどこも取り上げない事実を『週刊文春』の連載コラムで指摘した。ネットで散々叩かれたそうだが、当時見城さんと会った際、林さんの行動を認めてくれたという。林さんは、そこに見城さんの「器の大きさ」を感じたそうだ。
見城さんの言葉を借りると、ビジネスは「合理的で冷徹」なだけではない。
「感情が好悪が渦巻き、それが全体に大きく影響してくる」「常に人間臭い世界」である。
そんな世界で生きるポイントを、見城さんは「他者への想像力」と断言する。
すべてが思い通りになる空間で、他者への想像力が育つはずがない。自分とまったく違う思考回路や価値観を持っているのが異性であり、他者であるからだ。(『過剰な二人』)
ところで、見城さんのツイッター停止は、花村萬月のツイッターでの批判に端を発するもののようだ。しかし花村さんは、見城さんのツイッター中止を確認すると、自らはツイッターアカウントを削除する。
なんだ、てめえ、ツイッターやめちまったのか。いま知ったが、だせえなあ、最低だなあ。おい、見城、てめえ確信犯じゃなかったのか。(花村萬月氏の5/21付ツイッター)
おれの意識のなかから見城徹(綴りあってるか?)という男、完全抹消。もう存在いたしません。さようなら。
まさに見城さんのいう「常に人間臭い世界」がここにある。
見城さんと花村さん「まったく思考回路や価値観」を持つ「他者」との相容れない対話。
僕はここに、見城さんがツイッターをやめたことに対する、花村さん一流の矜持と美意識を見た。
ツイッターだ?フェイスブックだ? ったく、迎合および口喧嘩の世界にはほとほと愛想が尽きた。せいぜい言葉で嘘くさく癒しあい、傷つけあって愉しい人生をお送りください。
花村さん。見城さんが津原泰水さんとやり合うように、自分ともやり合って欲しかったのかな?
僕は花村さんのコメントから、一抹の寂しさを感じずにはいられない。
そして「ヒンシュクは金を出してでも買え!」と豪語し続けてきた見城さんの謝罪。
編集者と経営者。一身にして二生を生きるが如き見城さんの寂しさも、同時に感じざるを得ない。