東京・神保町 鶴八「憧れの老舗を訪問」
昨年の2月、僕は東京・神保町の路地裏にある憧れの老舗を訪れた。
「鶴八」
「鶴八」と聞くと、鮨好きなら『神田鶴八鮨ばなし』という名著を思い出すだろう。『神田鶴八鮨ばなし』は、名人と呼ばれた鮨職人・師岡幸夫の著書である。
後にNHKドラマ「イキのいい奴」の原作となり、ベストセラーに。「イキのいい奴」は、1987年放映。主演は小林薫である。師岡幸夫をモデルにした役柄は、小林薫演じる親方の弟子で、金山一彦が演じた。
師岡幸夫が始めた「鶴八」を、今は師岡親方の弟子である石丸久尊が営む。
師岡親方は、石丸親方に口を酸っぱくして次のことを説いたという。
「すべては人間なんだ。まず人間を磨け」(早瀬圭一『鮨に生きる男たち』)と。
暖簾をくぐると、凛とした緊張感にあふれていた。貫禄満点の石丸親方。そして年配の常連の方々。
どんなお店でも物怖じしない僕でも、さすがに背筋が震えた。
鮨は生粋の江戸前。
生のままの種をそのまま握ることは少ない。
酢洗い、酢〆、漬け込み・・・。
石丸親方の著書『鮨12ヶ月』で予習をした上で、江戸前鮨の醍醐味を、思う存分堪能した。
まずはシマアジを刺身にしてもらい、瓶ビールを。このシマアジが目の覚めるような旨さ。品の良い脂と、身の甘さが印象的。「私はやはり完全な天然ものが好きなので、それを使っています」(『鮨12ヶ月』)そうか。これが天然もののシマアジならではの味なのか!
刺身でビールを飲み干すと、お茶にしてもらい握りを。ちなみに「鶴八」の握りには、煮切りは引かない。石丸親方いわく「世間では、煮きりが流行っているんでしょうが、私のところでは煮きりは使いません。理由は、私の鮨には煮きりは必要ではないので、タネの味の塩気が物足りなければ、しょうゆを少しつけてください」(『鮨12ヶ月』)とのこと。
まずはサヨリから。楚々として美しいサヨリの身を、握る寸前に酢で洗って、握る。石丸親方の所作の、流れるように自然なこと。口に入れると、楚々とした香り、そして味わいの淡さに驚いた。2月のサヨリは「はしり」である。「はしり」のタネは、楚々とした香りや、さっぱりとした風味を味わうもの。僕はサヨリの握りから、鮨は「旬」だけでなく、「はしり」や「名残り」といった季節の移ろいをも味わうものと、教えられた気がした。
コハダ。これぞ江戸前の真髄。脂と酢や塩とのハーモニーが舌に心地良い。
本マグロのヅケ。生も良いけど、仕事が舌に伝わる赤身のヅケが好きだなあ。
冬が旬のタコ。二貫付けの一貫はツメなし、一貫はツメありにして頂いた。柔らかさに驚き。口に入れると、フワッとした香りと身の甘さに感激。甘味のあるツメと、塩茹でしたタコの旨味のコントラストがたまらない。好みの問題だが、僕はツメありが好きだなあ。
塩蒸しアワビ。贅沢な味わいに自分が「選ばれた人」であるような錯覚を覚えたほど。
ハマグリ。噛み締めると、アメや漬け汁の甘味とハマグリ自体の旨味、そしてワサビの辛味が渾然一体となり、食の官能ここに極まれり。
もっと色々食べたかったが、こちらのお鮨は昔風の大きめなので、既にお腹がくちくなっていた。最後に干瓢巻き。甘辛な干瓢とワサビ、酢飯の相性は、締め括りにもってこいである。
かつて師岡幸夫が握った「鶴八」で、直弟子の石丸久尊に握って頂いた至福の時間。「鶴八」で味わったのは、味もさることながら、伝統、醇風美俗、江戸っ子の粋、そして師岡親方直伝の職人気質であると心に刻み、店を後にした。
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