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私は「ちなみ様」をいつまでも崇めていたい

note界の重鎮「ちなみ様」をご存じだろうか?

双子の子どもを育てながら750日以上連続でnoteを更新するという異常行為を黙々とつづける大阪産のライターである。その継続力はもはやライターの域を越えて変態。

ちなみ様はライターを生業としているが、私からみたら荒々しい混沌の時代を「優しさ」と「柔らかさ」でうけながすエッセイスト。その温柔さはnote界のマザーテレサ。いますぐnote平和大賞を捧げたい。

タイパだのコスパだのといわれる爆速の時代に反して、とにかく時間の流れをふわっふわっにして雲のようにゆったりとさせてくれるその文体は大阪産とは思えない圧の無さ。まさに無重力のライティング。長野の田舎に住む私の勝手な偏見だが、大阪人はとにかく圧、圧、圧。だけど、彼女からはその圧力を微塵も感じない。


そして、その文章から染み出されるのは「小さな幸福」。金欲、物欲、性欲にまみれた強欲な青年実業家はきっと彼女の前では無力と化すだろう。30すぎてもまだ欲におぼれている自分も恥ずかしくなる。穴があったら入るどころか自ら穴を掘って一生身を潜めていたい。

しあわせとは、「上場して何億もの金を手にする」ことでも「タワマンから東京の街並みを見下ろすこと」でも「高級外車で風を切ること」でも「元レースクイーンの六本木ホステスと激しい夜を過ごす」ことでもない。

そんなものは所詮一瞬の快楽にしか過ぎず、ときがたてば粉々になって過ぎさってゆく造形。

そんな哀れな強欲族に、ちなみ様は「大きな幸福」は「小さな幸せ」の積みかさねの上で成り立つ、と教えてくれている気がする。

「幼い娘が嬉しそうにアンリ・シャルパンティエを食べている」様子を見たり「庭に咲いている植物に花が咲いた」ことに和んだり「普段は安くてかわいくてタフなものを買うけど2万円のパンプスを買って」自分にプチご褒美くれたり「大根を立たせて」なぜかツボったり「サポートでもらった300円」を重く感じたり「ベビーパールのネックレスを買って『これが似合う女の人になるねーん』」と約束したり。

大きな成功ははるか遠くにある巨大な怪物だが、ちなみ様にとって小さな幸せは半径5メートル、いや、半径1ミリ「ちなみの1ミリ」の中にある。幸せ界隈の三苫。

ちなみ様も当然人間。どうにもならない心の闇を抱えていたりもどかしい気持ちで胸がいっぱいになることもあるだろう。そんな中でも小さな幸せを探そうとする努力に原形がなくなるくらい心を打たれまくった。


ただし、ここまでくる道のりは簡単ではなかったと思う。過酷な日々を乗り越えたらからこそマザーテレサを彷彿とさせる仏の姿になることができたのだろうと思う。

ちなみ様には2人の娘がいる。しかも双子だ。


私も生後6か月の子を持つパパ。一人の子をあやすだけでもタフな行為。強制シャッターを強引にこじ開けるかのようにまぶたを上げて、度重なる寝かしつけの失敗で精神は崩壊寸前になる。私はまだ働きにでているため家にいる間でしか育児に携われないが、24時間体制で子どもを見守るママは完全なるブラック労働。精神崩壊寸前というより完全崩壊。

これが双子なんて私の生ぬるい脳内では到底想像できない。ブラック労働なんて遥かに上回る戦時中の労働、つまり、「デス」。デス労働。ときにはすべてを捨てて風になって飛んでいきたいと思うこともあっただろう。ギリギリの境地を乗り越えた、いや、まだまだデスタイム真っ只中なのかもしれない。想像絶する環境に脱帽して頭を全部刈り込みたい。


そんな過酷な日々から逃げず向き合ってきたからこそ「小さな幸せ」に目を向けることができる。


すべてのことが嫌になったとき、どうしようなくなったとき、ユーモアを失ったとき、朝起ちしなくなったとき、自分が自分じゃなくなったとき、

小さな小さな「半径1ミリの幸せ」を探したいと思った。


そして私はちなみ様をいつまでも崇めることにしたい。

以上。終わり。


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