法と正義と浜辺美波

「法を超えた正義はあるのか」

この言葉を浜辺美波の口から聞くことができる作品は、「タリオ 復讐代行の二人」の他に存在しないだろう。法と正義の関係は、古くは古代ギリシアのアテナイ、ソクラテスの時代より論争が絶えない法哲学上の一大テーマだ。「危険な思想を流布し、ペロポネソス戦争敗北をもたらした」として民衆裁判で死刑を言い渡されたソクラテスは、自身の無罪を確信しながらも弟子による脱獄の勧めを拒否し、法に従うことを選択する。ソクラテスに言い渡された死刑判決が不正であると同時に、判決に従わないこともまた不正である―悪法のパラドクスだ。

浜辺美波が演じる白沢真実は、法を超えた正義の存在を確信している。正義の戦士になるために法律家を目指した真実は、はじめは無邪気に法と正義を同一視していたのだろう。しかし、司法の下した判決疑問を持ち、同じころに弁護士資格の剥奪を言い渡された際、あっさり法と決別し正義の側につく。そして、法と正義の間に横たわる深い断絶に気づくにつれ、「私、司法研修所を首席で卒業してるんです」という自慢をしなくなる。
一方、岡田将生演じる黒岩は、法にすら頓着しない利己的な小悪党のように描かれる。「法を超えた正義」を信じる真実に対置されるのが「法に対する厳格な忠誠」ではなく「法の軽視」であるというのが面白い。違法行為を厭わない黒岩が、真実にとっての正義の実現を(ほんの少しばかり)後押ししていくことで物語が進行する。

ドラマのタイトルにもなっている「タリオ」は、「同害報復」を意味するラテン語だ。復讐の連鎖を描いた6話では、「目には目を歯には歯を」を説いたハンムラビ法典が引用された。真実は同害報復を「野蛮だ」と批判するが、黒岩に「ハンムラビ法典は過剰報復を抑制するための理性的な規範であった」と冷静に指摘される。そして皮肉なことに、最後には真実自身が自身の正義を完遂するために過剰報復に手を染めようとしてしまう。
「国際問題に対する道徳的アプローチは、国家的利益の追求という古くからの動機よりもかえって暴力を長引かせ、激化させる」というジョージ・ケナンの言葉が思い出される。真実の正義感がもたらしかけた過剰報復は、私的利益のために法すら軽視する黒岩によって回避された。「そんなことしてなんになる」と吐き捨てた黒岩は、民族自決や民主主義といった抽象的理念のために過剰な暴力を繰り返したアメリカを批判したケナンと重なる。

黒岩は「この世には汚れちゃいけないものがある」と告げ、真実と離れようとする。自分と共に過ごしたことで真実が野蛮な復讐に思い至るようになってしまったと考えたからだ。しかし、真実の過剰報復を制止したのはほかでもない黒岩だった。思えば彼は、報復殺人を依頼された際も「報酬に対してリスクが大きすぎる」として(一度は)依頼を断った。殺人の意思を持つ人物を真実が止めようとした際も、「二人が出会わなければ(考えが変わらなかったとしても)殺人は起こらない」と冷静な判断を下す。アンフェアな社会や人の心に巣食う悪を受け入れた上で、「実利」を追究するのが黒岩流の正義なのだろう。現実主義であり、ある種の功利主義だ。

さらに黒岩は、真実に弁護士に戻ることを勧める。「法を超えた正義」を信じる真実が法律家になるというのは、「正義によって法を書き換えていく」ことのメタファーとも捉えられる。事実として不正な現実を受け入れることと、正義が実現されるべきだという理想を持つことは矛盾しない。法すら軽視しているかに見えた黒岩も、実は「法を超えた正義」を信じる真実の同士だったという訳だ。ラストシーンで距離を置こうとする黒岩に対して真実が接近したのは、彼女がそれに気づいていたことの表れかもしれない。

彼らが掲げる正義の構想は明確に異なる。真実が道義・道徳を重んじる義務論的立場を取るのに対して、黒岩は実利を重視する帰結主義的立場を取る。しかし、彼らは「正義」という抽象的な概念に対する信念を共有している。抽象的な概念を現実世界に適用する際の、“表出形態”が異なるだけだ。彼らが共有する正義概念を、ソクラテスの弟子であるプラトンは「正義のイデア」と称した。ソクラテスが提起してプラトンが引き継いだ法と正義の思想的系譜に、浜辺美波の名が添えられることを嬉しく思う。

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