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あの日から、人の写真を撮るようになった気がする

写真に直接関係ない話がしばらく続くのと、もしかすると人によっては辛い話になるかもしれないので、閲覧注意。

あの日私は東京にいて、地下鉄に乗っていた。
永田町辺りだったと思う。少し急停止気味に駅に着くが、ドアが開かない。しばらくして、車体が横揺れをしている事に気付く。どんどん揺れが激しくなる。どうやら地震があったようだ。

揺れがおさまった後少しして、ドアが開く。駅についてからでよかったな、等と呑気に考えながら地上に出ると、不安そうな顔で立ち尽くす人があちこちにいた。なんとなく嫌な予感がして、近くのコンビニでおにぎり2つと電池式の充電器を買う。案の定、電車は動かないようだ。携帯も繋がりづらくなっている。

たまたま東京に来ていた母とは連絡が取れ、怪我などなく家にいるという事を確認した後、そこからてくてくと家まで3時間ほど歩いた。真冬だから、かなり寒かった。家について母から話を聴くと、どうやら東北で大きな地震があったらしい。最初は震度7と報道されていたと思う。
3月11日の事だった。

大学進学で上京するまで宮城に18年住んでいたが、正直地震が多い地域だった。宮城県沖地震の教訓から、家も耐震面では強い方。震度5程度なら割と慣れっこ。それが震度7になろうが8になろうが、多少の怪我人と最悪数名の死者、家屋の多少の倒壊程度で済むと思っていた。

しかし、少しずつ顕わになる惨状。大きな津波があったらしい。テレビに映し出されるのは、火の海となった気仙沼の町。

しばらくして、身近な人たちの安否は確認できた。幸い、近い知り合いで亡くなった人は居なかった。実家も、水も電気も来ていないが、山側にある為地盤は固く、壁にヒビが入って浴槽が割れた程度で済んだ。ほとんどの友人は避難所で夜を明かした。

その後も数百人、数千人規模で増えていく死者と行方不明者の数。併記される地名は、自分が見知った場所。自分の身近な人たちが住む町。疲弊した顔の母が、テレビを力なく見つめていたのを覚えている。

24時間つけっぱなしのテレビ。膨れ上がる犠牲者、飛び交う報道。
正直、テレビを消させて欲しかった。目を背けさせてほしかった。
親戚や友人の安否が確認できず、寒さと緊張で疲弊していく友人たち。
その場に居ない私は、結局どこか他人事だったのかもしれない。耳を塞ぎたかった。目を背けたかった。疲れ切って、眠りたかった。何もできないのに、悪いことが明るみになっていくだけなのに、テレビを観ているのが辛かった。寝ようと目をつぶっても聞こえてくる報道の声に、のどを掴まれるようだった。

さらに運悪く震災の3日後、バイト先の先輩とインドに行く約束をしていた。旅行代金の半額でキャンセルができると旅行会社から連絡があった。
計画停電も始まり、交通状況も読めない。行かないですよね?という意思確認の為先輩に電話したところ「お金ももったいないし、これを逃したら一生行かないかもしれない。折角だから行きたい。」と押し切られる。
人生初海外旅行、英語も喋れない、行ってからの予定も多分把握してない彼女を一人でインドに行かせるのは正直無理があった。
しかし、よりによってこの状況で。(でも結局、それでも断らずに行くことを選んだのは自分自身だ。)

インドに行っている間も、避難所にいる友人達と連絡を続けた。
下らない話題で気を紛らわせてもらうでもいい。少しでも勇気付けてあげられれば、安心してもらえれば。
私には、文字でみんなを励ますことしかできなかったから。
自分は、みんなが目にしている現実を目の当りにはしていないから。
私には、本当の意味では寄り添えなんかしないから。

なんであの子が死ななきゃいけなかったんだろう。すごく優しい子だった。すごく頭のいい子で、思いやりがあって、背が高い綺麗な子で、授業が一緒だったから仲良くなって。
これから勤務するところも決まって、春から新生活が始まるはずだった。
車が浜に打ち上げられてね、その中で見つかったって。きっと車に乗って逃げようとしてたんだと思う。

私には話を聴くことしかできない。それでも、話すことで少しでも楽になるなら。周りに同じ経験をした人たちがいるからこそ言えないのであれば、私が全部聞くから。
自分の少ない語彙を恨みながら、少しでも友人を勇気付けることができそうな言葉をつなぎ合わせ、絞り出す。私には、それしかできないから。

帰りの飛行機で、ふと外に視線を落とす。

青く広がっているはずの海には、びっしりと、瓦礫が浮いていた。
日本から、何千キロも離れている筈なのに。
この中に、誰かの欠片も混ざっているのだろうか。
誰かの思い出も混ざっているのだろうか。
哀しいとか辛いとかそういう想いは湧き上がってこない。
ただひたすら、怖かった。
自分が犠牲にならなかった事に、家族が、友人が犠牲にならなかった事に、ひたすら安堵していた。

復旧が少しずつ進む中で、流されたアルバムや写真についてのニュースをちらほら見かけるようになった。洗浄され、持ち主の元に戻される写真。それしか故人とのつながりが無くなってしまった人も沢山居た。
それでも、少なくとも写真が、いつかの思い出が、残った。

いつ日常が奪われるかはわからない。災害が来なくたって、いつ人は居なくなってしまうかわからない。
あれから、自分自身の写真も増えたと思う。顔がそんなに良い方ではないので、写真に写るのは嫌いだった。でも、それが自分の最後の姿になるとしたら。
撮るのも興味なかったし、頑なに入ろうとしていなかった家族写真も、自分からたまに撮影を申し出るようになった。一緒に撮った写真を祖母に渡すと、孫の写真が増えたと喜んでいた。(自分の遺影候補が増えた、とも。)

そして、死ななくたって、今というこの瞬間はもう2度と来ない。
同じような毎日を繰り返していても、今日という日は繰り返しではない。
人生の中には、喜びで飛び上がる日も、怒りに震える日も、哀しみに濡れる日も、微笑みに溢れる日もある。あっという間に過ぎ去っても、いつかみんなの記憶から色褪せて消えてしまっても、特別な日じゃなくても、確かにその時間は存在した。
かけがえのないその人の日常の1ページを、その瞬間にしか存在しないその一瞬を。私が大切に想うその人達の、その一瞬を。
この世に存在した、その証を。
私は、この世に残したい。それが、私の願いだった。

一応だけど、今はここまで悲壮感を背負って撮ってない。
見返してあったかくなる写真を、元気をくれる写真を。私が大好きな人たちの、素敵な表情を。愛すべきその一瞬を、残していきたい。

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ぽんた
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